大河ドラマの世界を史実で深堀り!

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「雲立楠」(浜松八幡宮)

井伊家を訪ねて

やっぱり謎多き三方ヶ原の戦い そもそも信玄の出兵意図も不明だ

今回は「悪魔が来たりて笛を吹く」ではなく、「武田が来たりて火を放つ」です。(「笛」は井伊直親の象徴ですからね。井伊直親=悪魔ではないので。というか、井伊谷城に火を放ったのは武田信玄ではなく、近藤康用でしたが…)。

さて、ポスターが新しくされました。

「おんな城主 直虎」新ポスター完成!

撮影現場では、「虎松の方に井伊直虎が視線を向ける」「虎松の肩に井伊直虎が手を置く」などのさまざまな案が出たそうですが、最終的に「同じ方向(前)を見て、井伊直虎は虎松の背後にそっと寄り添う」という構図に落ち着いたと聞いています。

虎松の腰にはお守りが結んであります。井伊直虎のお守りでしたら、鶴(小野政次)と亀(井伊直親)の刺繍でしょうけど、虎松のお守りですから、虎(養母・井伊直虎)と亀(実父・井伊直親)の刺繍になっています。実母・奥山ひよが可愛そう。虎の横に篠の刺繍をしてやれば……。

ポスターのテーマは「未来のバトン」だそうです。ちょっと意味が分かりにくいなぁ、と。私なら「未来へのバトンタッチ」をテーマとして、井伊直虎が虎松の肩に手を置く構図にします。(それじゃあ、バトンタッチではなく、ボディタッチですが;)

また、虎松のお守りに対応させて井伊直虎は、井伊直親が腰から下げてお守りにしていた井伊直盛の刀の鍔を持っているのですが、写真には、はっきりと写っていません。

私の考える「未来へのバトンタッチ」は「井伊直虎~井伊直政」という「月舩」(渡し船)に過ぎませんが、「『未来のバトン』とは、2つのお守りの事である」として、井伊直虎の持つお守りもきちんと撮ったポスターであれば、「井伊直盛~井伊直親~井伊直虎~虎松(井伊直政)」という大河になったと思います。

※ドラマでは、事ある毎に、ポスターにある「井伊共保出生の井戸」へ行っていますが、井伊氏居館内には「井伊大明神」(ご祭神は「井伊八幡」こと井伊共保)があり、事ある毎にそこへ祈りに行ったと考えられます。

 

第37話 「武田が来たりて火を放つ」 あらすじ

永禄11年(1568)12月の徳川家康の遠江侵攻から4年近くたった元亀3年(1572)10月のこと。
井伊直虎の井伊家再興断念から数年が経ち、農婦になった井伊直虎と龍雲丸との生活は、すでに「新婚生活」と言える期間を過ぎていたが、単なる「同居生活」であって、まだ子は生まれていない。

そんなある日、龍雲丸の元に、堺の中村与太夫から誘いの便りが届き、龍雲丸は、直虎に堺に一緒に行かないかと提案した。龍雲丸=新田友作だと思っていたが、龍雲丸=石川五右衛門らしい。

石川五右衛門(?-1594)
正体は、遠州浜松生まれの真田八郎だとされるが、伊久知城主・石川左衛門尉秀門の二男・五良右衛門で、落城の際に逃げ、百地三太夫について伊賀流忍術を学んだという説もある。
その後、仲間を集めて、盗賊の頭となり悪事を繰り返したが、盗む相手は権力者のみの義賊だったため、庶民の英雄的存在となった。
京都三条河原、あるいは、堺で釜茹での刑で、子と共に絶命。

※「龍雲丸=新田友作」説を提唱して恥かいた。さらに言えば、「週刊ザ・テレビジョン」(角川書店)というメジャー誌(2017/5/26号)に「高瀬は武田の間者ではない」と書いて大恥かいた。

―――とわも共に行かぬか? 共に堺へ。(by 龍雲丸)

現代劇においては、「夫婦揃っての転居か、夫だけの単身赴任か?」という問題である。井伊直虎は、実母・祐椿尼の「孫を抱きたい」という「野望」を聞き、共に堺へ行こうとするが、武田信玄の遠江侵攻の噂を聞く。

―――今度こそ、皆を無事に逃してぇ。(by 龍雲丸)

まずは、堀川城での汚名返上をしてから堺へ行こうと決めた二人であった。

ここで、略年表で史実(通説)を確認しておく。

元亀3年(1572年)

10月3日 武田信玄、甲府から出陣(西上作戦)
10月13日 一言坂(磐田市)の戦い
10月15日 匂坂城(磐田市)の戦い
10月16日~12月19日(11月30日?) 二俣城(天竜区)の戦い
10月22日 山県隊:柿本城開城→仏坂の戦い→井平城落城
12月22日 三方ヶ原(北区)の戦い
12月23日 武田信玄、三方ヶ原で首検分
12月24日 信玄本隊、刑部砦(北区)に着陣

「元亀3年の武田・徳川の進軍ルート」(浜松市地域遺産センター)

 

《ドラマと史実の違い》

ドラマでは、
・井伊谷へ向けて、信玄本隊が東から侵攻した。
・近藤康用が井伊谷城にいた。
・近藤康用が井伊谷城に火を放った。
・農民は荷物を持って「逃散」したので、出兵しなかった。堀川城の戦いの時のように惨殺もされなかった。
としている。

これに対し、史実は、
・信玄本隊とは別ルートを進んだ別働隊(「赤備え」と呼ばれる甲冑や武具が赤で統一された山県隊5000人)が、柿本城、井平城を落とし、(井伊谷を通らずに川名を通って?)都田に出て、二俣城で信玄本隊と合流し、三方原へ向かった。(山県隊による井伊谷蹂躙は、通説では「三方ヶ原の戦い」後であるが、「三方ヶ原の戦い」前(井平城を落とした後)とする異説もある。)

・近藤康用は、「堀江城の戦い」で歩行困難になったため、子・近藤秀用が名代となっており、武田軍の遠江侵攻時、近藤秀用は柿本城にいた。柿本城が山県隊に攻められて無血開城すると、近藤秀用は徳川家康のいる浜松城に逃げ込んだ。「三十六計逃げるに如かず」である。

・小規模な城は、隣村との抗争には使えるが、大軍に攻められたらひとたまりもない。大軍に攻められた時は、城を自ら焼いて逃げた。これを専門用語で「自焼」という。
──井伊の兵はせいぜい500。(by 井伊直虎)
井伊谷を攻めた山県隊は5000。10倍…。

・農民は、戦場にいれば、戦後、勝った武田軍による「乱取り」の被害にあうので、大切な物を持って逃げた。これは「避難」であって、「逃散」とは言わない。「逃散」とは、村を挙げて耕作を放棄し、山野や他領へ逃亡するという「抗議行動」である。(ドラマでは「逃散」は、近藤康用に降参して戦いを避けさせるための「抗議行動」としていた。)「長篠の戦い」の時、村人は「小屋久保(こやんくぼ)」と呼ばれる山中に避難していた。井伊谷の人々は、ドラマでは「川名の隠し里」に避難したとしているが、三岳山に避難したと思われる。
である。

 

今回驚いたのは、瀬戸方久の「結婚の条件」(今話題の鈴木砂羽さんは浜松市出身!)です。

「結婚の条件」は、普通は「家事(料理、掃除、洗濯、…)が得意」かな? でも、瀬戸方久は薬の行商人ですから、「経理(算盤)が得意」かな? 瀬戸村は綿花栽培が盛んだから、「紡績とか、機織りが得意」っていうのもありかと。刺繍…売るためか。

―――あやめ殿は方久の吉祥天女にございます。(by 瀬戸方久)

※光浦靖子さん(出身は、早虎の前の『釣びと万歳』の愛知県田原市(松平健さんの出身地・愛知県豊橋市の隣町))の特技は手芸。中でもニードルフェルトを使ったブローチ作りが得意で、『男子がもらって困るブローチ集』『子供がもらって、そうでもないブローチ集』(共にSwitch library)等を出版。

※新野家は、上田家の庶子家。新野親矩は、上田家からの養子で、長女・あやめは、史実では、上田秀光と結婚している。

「三方ヶ原合戦立体絵巻」から「戒め」(制作:山田卓司さん(情景作家)/監修:磯田道史先生(静岡文化芸術大学(当時)) ※「三方ヶ原の戦い」の出撃・激突・敗走・反撃・戒めの5場面をジオラマで再現

さて、武田信玄と組んで織田信長を討とうとしたのですが、織田からの合力(援軍)・佐久間信盛が来てしまったので、

―――打って出るしかなくなった。

そして負けた。脱糞し、「しかみ像」のポーズをとる徳川家康であった。

※徳川家康の「せつな糞」:脱糞の出典は『三河後風土記』であるが、『改正三河後風土記』を書く時に、脱糞は「三方ヶ原の戦い」のエピソードではなく、「一言坂の戦い」のエピソードであり、しかも、「一言坂の戦い」に徳川家康は参加していないので誤伝であると修正している。

「原書に、大久保忠佐、神君、浜松へ御帰城の時、其御馬の鞍壺に糞があるべきぞ。糞をたれ逃給ひたりと罵りたるよしをしるす。此日御出馬なければ、逃給ふ事あるべきにあらず。是等皆、妄説なる故に削り去りぬ。」(『改正三河後風土記』「遠州一言坂軍の事」【大意】原書『三河後風土記』には、徳川家康が浜松城に帰って来た時に、大久保忠佐(忠世の弟)が「馬の鞍壺に糞があるぞ。殿は糞を漏らして逃げてきなさったのか」と罵った話を記している。この日(「三方ヶ原の戦い」の日ではなく、「一言坂の戦い」の日)、徳川家康は出馬していないので、これは妄想であり、改定にあたり削除する。)

※「顰(しかみ)像」:徳川美術館所蔵「徳川家康三方ヶ原戦役画像」の通称。徳川家康が「三方ヶ原の戦い」の敗戦直後、自戒のために絵師に描かせた肖像画で、生涯、座右に置いていたというが、その根拠は不明である。

(つづく)

 

【今回の言葉 「風林火山」】

【出典】 武田信玄が用いた「孫子の旗」の「疾如風/徐如林/侵掠如火/不動如山」の最後の一文字を抜き出したもの。

「孫子の旗」(武田信玄が快川和尚に書かせたという軍旗)/山梨市HPより引用

 

『孫子』(軍争篇第七)には、
故其疾如風(故に其の疾(と)きこと風の如く)
其徐如林(其の徐(しず)かなること林の如く)
侵掠如火(侵掠(しんりゃく)すること火の如く)
難知如陰(知り難きこと陰の如く)
不動如山(動かざること山の如く)
動如雷霆(動くこと雷霆(らいてい)の如し)
とある。

【大意】 それで、軍隊は、風のように速く移動し、 林のように静かに伏せ、攻撃となれば猛火のように激しく、陰のように動きを悟られないようにし、山のように陣形を崩さず、動く時は雷のように突然にするべし。

これは、武田信玄が快川和尚(快川紹喜。恵林寺において武田信玄の葬儀を執行した臨済宗妙心寺派の僧侶。天正10年(1582)、恵林寺で焼死する時の辞世「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」で有名)に軍旗に書かせた言葉だという。

 

「三方ヶ原合戦立体絵巻」から「出撃」(浜松が生んだ世界的プロモデラー・山田卓司氏のジオラマ)

一方、徳川家康の軍旗には「厭離穢土 欣求浄土」と書かれていたという。

これは、大樹寺の登誉上人が、僧兵を奮い立たせるために書いた『往生要集』の章題で、「厭離穢土(穢れたこの世を忌み嫌い)欣求浄土(死んで極楽浄土へ行くことを強く希望する)」という意で、この「浄土宗の信者は、死ねば極楽浄土へ行くことが出来るので、死を恐れない」という浄土思想は、浄土真宗(一向宗)信者による一向一揆のスローガン「進者往生極楽 退者無間地獄(進まば往生極楽、退かば無間地獄)」に通じる。し かし、德川家康は、この軍旗を登誉上人に貰い受けると、「儂がこの戦乱の世を平和な世に変える」という意味で用いたという。

※徳川家康と登誉上人の問答が残されている(「大樹寺文書」)。登誉上人が「武士とは何ぞや?」と聞くと、德川家康は「戦って、領地を増やすのが武士。天下をとるまで続く」と答えると、登誉上人は「天下は天下の天下なり。天下から天下を奪う武士は大泥棒」と切り替えした。このやりとり、どこかで聞いたような・・・(=^.^=)  そして、最終的に「万民のために天下の 父母となって万民の苦しみを無くす」「厭離穢土 欣求浄土」(戦乱の世を平和な世に変えるための聖戦(阿弥陀仏に代わっての代理戦争「南無阿弥家康」))という戦いの大義名分を得たという。
これは、松平初代親氏の座右の銘「天下和順、日月清明、風雨以時、災厲不起、國豐民安、兵戈無用」(天下、平和で、穏やか、日、爽やかに、月、清く澄み、風、時に吹き、雨、時に降り、天災・疫病起こらず、国、豊かにして、民、安らかで、兵や武器は(平和で戦争が無いので)無用。『仏説無量寿経』)に通じる。ちなみに、松平親氏は、「10代以内の子孫に天下を統一する者が現れる」と予言したが、徳川家康は松平9代宗主であるから、始祖の予言は当たったことになる。

ちなみに、井伊家の軍旗には「八幡大菩薩」とある。井伊初代共保は、八幡宮の御手洗の井戸から生まれた八幡神の化身である。

 

キーワード:武田信玄の西上作戦

当時のパワーバランスは、従来、「織田信長と武田信玄の両巨頭に挟まれた徳川家康」という構図で考えられてきました。

永禄11年(1568)12月、武田信玄と徳川家康による今川領侵攻が同時に開始されました。どんなに調べても武田信玄と徳川家康の軍議の存在を実証できないので、「(武田信玄と「甲尾同盟」、徳川家康と「清洲同盟」を結んでいた)織田信長の指示による攻撃」と考えられました。

しかし、ここ数年、「応仁の乱」など、足利将軍の研究が学会でブームとなっており、「名前だけの将軍ではなく、権力もあった」と足利将軍の復権作業が行われています。その成果で、武田信玄と徳川家康による今川領同時侵攻を指示したのは、織田信長ではなく、足利将軍だと学説が変わりつつあります。

「遠江をめぐる武田氏との戦い」(浜松城公園)

今回の元亀3年の武田信玄の遠江侵攻も奇妙な話です。

武田信玄が同盟者の織田信長と同盟を組んでいる徳川家康の領地に侵攻したのです。

これに対し、織田信長は、同盟者の武田信玄を討とうとして、3000人の援軍を浜松城(徳川家康)へ送っています。武田信玄は、浜松城を攻めずに、避けて通っていますし、織田からの援軍は、三方ヶ原では、あまりやる気を示していない。どうも、武田信玄の遠江侵攻の影にも足利将軍(足利義昭)がいるらしいです。

そもそも、この「西上作戦」の目的が何だったかと言うと、
説① 上洛戦説
説② 徳川家康を倒すという局地戦説
説③ 織田信長を倒すという局地戦説
の3説があり、結論が出されていません。

過去の通説であった説①は、根拠としていた文書が偽文書(武田信玄が、武田信玄の死後に出した文書)であることが分かったり、足利将軍の研究が進展したりした結果、現在は否定されています。

説②:徳川家康を倒しての領地拡大(徳川領である三河・遠江両国を手に入れる)という説ですが、武田信玄は、三方原で徳川家康に勝ったのに、続けて浜松城を攻めて、徳川家康を討ち取ってはいないので、成り立ちません。

説③:この説が正しければ、甲府から直接、東美濃へ進軍するはずです。しかし、それでは、織田信長と戦っている最中に、織田信長と清洲同盟を組んでいる徳川家康が背後から攻めてくるとやばいので、まずは遠江国の徳川家康を攻めたということです。

この説③が正しければ、野田城を落とした後、武田信玄は、東美濃へ進軍したはずですが、武田信玄が持病で(鉄砲傷で?)亡くなってしまったので、証明不可能となってしまいました。持病(鉄砲に撃たれての深手?)が無くても、①織田包囲網の朝倉義景が越前に撤兵してしまった、②半兵半農の武田軍ですから、兵士は、春にはそれぞれの耕作地に戻らなければいけない。③雪が解ければ、上杉氏が甲府を攻める可能性があるので、東美濃への進軍は無かったかもしれません。

三方原古戦場(浜松市北区根洗町)

「三方ヶ原古戦場 上洛を目指した武田信玄は元亀3年(1572)10月3日に2万5000の軍勢を率いて甲府を出発、同年12月22日には浜松城の北側に広がる三方原に進出してきた。徳川家康は家臣の反対を押し切って1万1000(徳川軍8000と織田信長の援軍3000)の軍勢を率いて浜松城を出発、武田信玄の軍に迫った。徳川軍はいつでも攻撃できるような鶴翼の形をとり、家康の陣形の確認した武田信玄は魚鱗の陣形をとった。戦いは日暮れに近いころ、ここ三方原の根洗付近で開始されたが、徳川軍は武田軍の前に惨敗、総崩れとなって浜松城に退却した。この戦いで敗れた家康は多くの教訓を得た。「浜松市史」ではこれをつぎのように記している。「この敗戦によって弾力のある積極性の重要さを身をもって体験した。また、野戦のかけひき、短時間で勝敗を決するという哲理を学びとったのである。家康が野戦の名将となったのは、三方原の敗戦によってえた経験が大きく作用している。」」(写真。現地案内板)

 

キーワード:三方ヶ原の戦い

「三方ヶ原の戦い」は有名な戦いですが、その実態は不明です。

ドラマでは、徳川家康の出陣理由を、「武田信玄は、徳川家康が今川氏真を逃したことに怒り、遠江国に侵攻した。これに対し、徳川家康は、武田信玄と組んで織田信長を倒そうとしたが、来ないと思っていた織田信長からの援軍が来てしまったので、武田信玄と戦わざるを得ない状況になった」としていました。

が、「三方ヶ原の戦い」には、出陣の理由以外に、
・信玄本隊はどこに陣を構えたか?
・主戦場はどこだったか?
・なぜ浜松城に攻め込んで、徳川家康を討ち取らなかったのか?
などが不明です。

※徳川家康の出陣理由と主戦場について、以前は、武田信玄が三方原を通り抜けようとしたので、徳川家康が怒って出陣し、「小豆餅(あじきもち)」(地名)が主戦場であったとし、現在の通説は、主戦場は祝田坂上(浜松市北区根洗町)で、坂の上から攻撃すれば勝てると思って出陣したとなっております。しかし、徳川軍から小隊が次々と物見や見物に出て行き、武田軍と小競り合いとなり、なし崩し的に合戦になったという新説も出ています。

「なぜ浜松城に攻め込んで、徳川家康を討ち取らなかったのか?」について、「西上作戦」の目的は、織田信長を倒すという局地戦説を主張する学者が、「織田信長を討ちたいのに、二俣城の攻略に2ヶ月かかり、浜松城の攻略にも同等の日数が必要と考えたため」としています。(最近の研究では、二俣城については、「攻略に2ヶ月」ではなく、「攻略1ヶ月半、普請半月で2ヶ月」です。)「時間が無い」「先を急ぐ」のであれば、「高天神城を制する者は遠州を制する」とまで言われた重要な高天神城や、久野城の攻略をパスしたように、二俣城もパスした、普請は後回しにしたはずです。二俣城と野田城をじっくりと攻めた理由、浜松城を攻めなかった理由は別にあると思います。

【参考】「信玄公御一代敵合の作法三ヶ条」(『甲陽軍艦』(品第三十九))
信玄公御一代敵合の作法三ヶ條者、
敵のつよき、よはきのせんさくあり。又は、其国の大河、大坂、或は分限の摸様、其家中諸人の行儀、作法、剛の武士、大身、小身ともに多少の事、味方物頭衆によく其様子をしらせなさるゝ事。
信玄公被仰は、弓矢の儀、勝負の事、十分、六分、七分のかちは十分のかちなりと御さだめ被成候。中にも大合戦は、殊更右の通り肝要也。子細は八分の勝はあやうし。九分、十分のかち、味方大負の下作り也との義也。
信玄公被仰は、弓矢の儀、とり様の事、四十歳より内は勝様に、四十歳より後はまけざる様にと有儀なり。但し、二十歳の内外にても我より小身なる敵にはまけぬ様にして勝、過すべからず。大敵には、猶もつて右の通りなり。おしつめてよく思案工夫を以てくらゐづめに仕り心ながく有て後途の勝を肝要に仕るべきとの儀なり。

【大意】「信玄公御一代敵合の作法三ヶ条」
①敵の強さ・弱さ(レベル分析)、大きな川や坂の位置(戦況を左右する地理的要因)などを、味方物頭衆(味方の各部隊のリーダーたち)に知らせておくこと。これは、『孫子』の兵法である。当時の兵法書は、『六韜』『三略』であったが、武田信玄は、『孫子』を重視し、他の戦国大名とは異なる思想に基づく戦い方をした。このドラマでは、以前にも『孫子』の兵法が登場したが、これは『孫子』の兵法が一般的であったからではなく、武田信玄の師・快川和尚と、井伊直虎の師・南渓和尚が、共に臨済宗妙心寺派の僧であることに起因すると思われる。
②この第二条は、「信玄の七分勝ち」として広く知られている。100%勝ってしまうと「おごり」が生まれ、次の戦で大敗するから70%勝ちがいいのだという。「三方ヶ原の戦い」に勝ったのに、その後、浜松城を攻めて、徳川家康を討たなかったことは、この思想によるとも言われる。しかし、武田信玄は、「姉川の戦い」で、織田信長が浅井・朝倉を破ったのに、小谷城を攻めなかったので、浅井・朝倉の勢力が温存された事を知っているはずである。いずれにせよ、徳川家康を討たなかったが、「徳川・織田連合軍が武田軍に敗れた」という情報は瞬く間に広がり、戦わずして武田方に寝返る国衆や武将が次々と現れたという。
③若い時は、「若気の至り」で、「勝とう」と思って奮戦したが、40歳を過ぎたら「負けない戦い」をするようになったという。浜松城を攻めれば勝てるが、多くの犠牲者が出る。「多くの犠牲者を出す」ということを、武田信玄は「負け」ととらえて、浜松城攻めを避けたのかもしれない。

【参考】三方ヶ原の戦い 合戦場を歩きながら諸説を考察! なぜ家康は信玄に無謀な戦いを挑んだか?

 

キーワード:雲立楠

「雲立楠」

「東照宮御由緒 雲立楠」(「東照宮」は神社名ではなく、「徳川家康(東照神君家康公)」のこと。)

「雲立のクス 楠の巨樹で、地上1.5m幹回り約13m、根元回り14m。枝張り東西約21m、南北約23m、樹高約15mあり、幹の下部には大きな空洞がある。幹は地上1.5mのところより数枝に分かれ、古木の部は樹勢が衰えているが、新生部はすこぶる旺盛で、枝葉は四方に繁茂している。
永承6年(1051年)八幡太郎義家が当八幡宮に参籠の折り、樹下に旗を立てたとの伝承から「御旗楠」と称された。また元亀3年(1572年)徳川家康は三方原合戦に敗れ、武田軍に追われてこの楠の洞穴に潜み、その時瑞雲が立ち上がったとの故事により「雲立の楠」と称されるようになった。」(現地案内板)

「雲立楠」現地案内板

「家康と白尾の姓」(犀ヶ崖資料館)

「家康にまつわる民話「浜松の伝説」渥美実著「家康と白尾の姓」
今は、むかし。
元亀三年の十二月、有名な三方原合戦で徳川家康は、さんざんの負けいくさ。このとき武田の軍ぜいに追われた家康は、ふりしきる雪のなかを、まっ白い馬にまたがって、命からがら野口(浜松市中区八幡町)の八幡さまの境内へにげこみました。
八幡さまの境内には、いまでも、十五メートルもある大楠が、そびえ立っていますが、当時から大きな木でした。
家康が馬を走らせてこの木の下まで来て、ふと、その根元を見ると、大きなほらあながあるではありませんか。
「かたじけない。これぞ、神のおめぐみであろう。」
家康は白馬にまたがったまま、そのほらあなへかくれました。
ところが、白馬の白い尾だけが、あなのなかにはいりきれないで、外にとび出していました。これに気がついたひとりの村人が、
「あ、おとのさま、それ、それ。馬のしっぽがまだ外へ出ていますよ。早くかくさなくては、敵に見つかってしまいます。」
といって、いそいで白馬の尾をほらあなのなかへおしかくしました。
武田ぜいが、家康をさがしに来たのはそのすぐあとでした。
武田ぜいは、家康を見つけることができずに帰って行きました。
家康はあやうい所で命が助かりました。よろこんだ家康は、お礼のしるしに村人にのぞむものをあたえようといいました。
すると、村人は、
「わたしに姓をおあたえください。」と申しました。
そこで家康は、
「白い尾をかくしてくれたから、白尾という姓にしなさい。」
と、白尾の姓をあたえました。 」(犀ヶ崖資料館のパネル)

また、『三方原戦記』には、徳川家康が浜松八幡宮で戦勝祈願をすると、八幡神が馬に跨った武士の姿で現れ、犀ヶ崖に飛んで行き、多くの武田軍を犀ヶ崖に落として、徳川軍を勝利に導いたとあります。

徳川家康に関する伝説は100以上あります。調べてみると面白いですよ!

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

 

主要キャラの史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

-井伊家を訪ねて

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