「井伊家家老 小野屋敷跡地」(売店、休憩所あり)

井伊家を訪ねて

小野政次の辞世&本懐と井伊直虎による心臓一突き! さて、その意味は?

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井伊直虎小野政次の作戦が失敗し、小野政次を死に追いやったのは、「近藤康用の個人的な恨み」が原因なのでしょうか?

──お主は、儂を騙した事など、とうに忘れておったろうな。(by 近藤康用)

意図的に騙したことは忘れないと思うが、厄介なのは、悪気のない言葉や行為、その人のためになると思って言った言葉や行為が誤解されて恨まれること。
さらに厄介なのは、やった方は忘れても、やられた方はずっと覚えているということです。
いじめられっ子が、いじめっ子を殺したという「同窓会殺人事件」では、いじめっ子は、ナイフで何度も刺されながら、「何年も前の、すでにやったことを忘れていたいじめが理由で俺は殺されるのか?」と驚いたことでしょう。

「恨み」は厄介です。が、仕返しして、恨みを晴らしてしまえば、スッキリします。
ですから近藤康用は、木材を伐った龍雲党を処罰しようとしましたが逃され、その仕返しに冨賀寺の本尊盗難事件を思いつきましたが失敗、恨みは晴らせず、ストレスが溜まっていました。

そこで小野政次は、「全ての恨みを自分に向けさせ、晴らさせる」という方法を考えたのです。

恨まれるのには慣れていますから。

近藤康用には、キリストの「汝の隣人を愛せよ」「汝の敵を愛せよ」「右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい」と教えたいし、小野政次には「忌み嫌われるために生まれてくる子などいない」と強く言いたい。

No one is born hating another person because of the color of his skin or his background or his religion.People must learn to hate, and if they can learn to hate, they can be taught to love.For love comes more naturally to the human heart than its opposite. - Nelson Mandela
【日本語訳】 肌の色や出自(生い立ち)や信仰(宗教)を理由に人を憎むように生まれついた人などいない。人は憎むことを学ぶのだ。そして、憎むことを学べるのであれば、愛することも教えられるだろう。なぜなら愛は憎しみよりも、もっと自然に人の心に生まれるものであるから。―ネルソン・マンデラ自叙伝『自由への長い道』

 

第32話 「嫌われ政次の一生」 あらすじ

井伊直虎と徳川家康の契約は、
・井伊は戦わず、城を明け渡す
・望みは井伊領と気賀の安堵と、井伊家再興
であったが、徳川軍を襲った者たちがいた。

襲ったのは、小野政次率いる井伊衆なのか?
それとも、今川の野伏(のぶし)なのか?
あるいは、井伊がやったと見せかけたい誰かの仕業なのか?

※野伏(のぶし):平安時代は、山野に寝起きして修行する僧、つまり「山伏」と同義であった。南北朝時代は、山野に隠れて落武者を襲い、武具などを奪った武装集団を言った。戦国時代には、大名や国衆が雇ったゲリラ戦を行う武装農民集団を意味するようになり、最終的には戦いに動員された地域住民を指すようになったという。「今川の野伏」とは、「徳川家康が攻めてくると聞いて山に入った井伊領に在住する半士半農の今川給人衆」のことか?

小野政次が逃げたこともあって事の真相が分からぬまま、契約破棄となり、井伊直虎は牢に入れられた。

そして、小野政次は、近藤康用を襲い、全ての罪を負って井伊直虎と入れ替えに牢に入った。
逃げるチャンスもあった。
しかし、逃げなかった。
逃げれば捜索活動が始められ、川名の隠し里にいる人たちが見つかってしまうからだ。

──俺一人の首で済ますのが、最も血が流れぬ。(by 小野政次)
これは、今川軍が都田川まで攻めてきた事を知っての井伊直親の考えであるが、今回の小野政次の考えでもある。

──忌み嫌われ、井伊の仇となる。恐らく、私はこのために生まれてきたのだ。(by 小野政次)
これが「小野の本懐」だという。
「小野の」であるから、父・政直もそうであったのであろう。

井伊直虎の生涯を描いた梓澤要『女にこそあれ次郎法師』(KADOKAWA)では、死の直前に見舞いに訪れた井伊直盛小野政直が、
小野政直「わが小野家は新参ながら、家老職に迎えていただきました。そのご恩に報いるには、敵役に徹することと、それがしが家督を継ぐ際、わが父から命じられました」
井伊直盛「よくやってくれた。礼を言うぞ」
という会話を交わす。

そして井伊直盛が帰ったあとで、小野政次に向かって、
小野政直「やっと、胸のつかえが降りた。人間、弱いものよ。憎まれ者に徹することはなかなかできぬ。最後はわかってほしいと望む。愚かなものよ。政次、おまえは父の愚を犯してはならぬ。恨まれ謗られるのを怖れるな。いつ討たれるか、そう覚悟せよ。井伊家に非あらば、断固、阻止せよ。それでも聞き入れられぬときは、除いてのけよ。決して躊躇してはならぬぞ」
と、井伊直満の逆心を井伊家のために、憎まれ役となって取り除いた小野政直が、小野政次に「家老の役目」「小野の本懐」を伝えるシーンを今思い出した。

白黒をつけむと君をひとり待つ 天つたふ日そ楽しからすや

「天伝う日」は直訳すれば、「大空を伝い渡る太陽」であり、「天伝う」は「日」(太陽)を導く枕詞であるから普通は訳さない。
ただし、今回は「天伝う日」で、「太陽が天を渡る日」と訳したい。

この辞世は、人生(過去)を振り返っての辞世ではなく、「いつも夜に南渓和尚の部屋でやっていた碁を、昼間にやってみたい」(昼間はお互いやることがあり、碁を打っている暇などなかったが、あの世では明るい部屋で打ってみたいものだ)という未来での願望を詠んだ辞世である。
とは言え、「現世では出来なかった、残念だ、心残りだ」という気持ちは感じ取れない。
清々しい辞世である。

まとめると、「白黒つけようと(決着をつけようと、囲碁をやろうと)、一人で、君が早く来ないかなと待っている。こういう良い天気の昼間ほど楽しい日はない」の意となる。

また、「ひとり待つ」は、「牢屋で1人で処刑の日を待っている」という意味にも取れ、「これで小野の本懐を遂げることが出来ると満足であり、死に対する恐怖心は無い」という気持ちが感じ取られる。さらに、「天つたふ日」を、処刑されて「千の風になって天伝う日」「魂が白鳥(鶴)となって天伝う日」と深読みして、「ひとり待つ」を「先に一人で地獄へ行って待っている」の意と解することも出来そうである。

「常在戦場」──小野政次に限らず、当時の武士は、常に戦場にいると心得て死を覚悟していたし、「厭離穢土 欣求浄土」──死ねば極楽浄土へ行ける、と死を終わりではなく、極楽浄土での生活の始まりと受け止めてい者が、少なからずいたように思われる。

小野政次の場合、虎松の代わりに疱瘡の子を殺したので、行先は極楽浄土ではなく、地獄である。
が、尼でありながら「竹馬の友」を殺した井伊直虎も、地獄行きであろうから、「先に行って待ってる」「君が来る日を待っている」が待ち遠しいのであろう。

離れた場所で碁を打ってる時の2人の会話(テレパシー)は音声となって流れた。
今回も牢にいる小野政次と「『我を利用せよ。我も利用する』でいいのだな?」という回想風テレパシーが流されたけど、処刑直前、目を合わせた時の2人の会話は聞こえなかった。

想像するに、
小野政次「安心しろ。俺が地獄に全て持っていく」
井伊直虎「我もすぐに地獄へ行くから待っておれ」
だったかと。

奸臣を成敗する主君を演じることが「小野政次を井伊家のために利用する」ということだと井伊直虎は解き、鑓を突き刺された時の小野政次の笑みは、
「はい、よく解けました。正解です、殿」
という意味だったかと。

「磔」は、犯罪者が出血多量で死ぬまで、何度も何度も両脇から肩へと槍を突き立てる苦痛の多い処刑方法である。

ゆえに心臓一突きの方が楽に死ねるから良い。

井伊直虎が小野政次に槍を突き立てたのは、「他人に殺されるくらいなら自分が」という気持ちの表れであろうが、「出来るだけ楽に」という意図もあったのであろう。
また、「井伊直虎は悪くない。騙されたのだ。全て小野政次が悪い。だから殺したいほど憎んでいる」と徳川家康へのアピールも計算に入っていたであろう。
※史実は、処刑場に徳川家康がいたという。

本当に憎いのであれば、「これでもか、これでもか」と何度も何度も刺すものである。
そして、井伊家の関係者たちが集まって、「これで長年の恨みが晴れた」と見て喜んでいるはずである。

──こうして、忠臣・小野は「奸臣」として後世に伝わることとなった。

※小野政次が井伊直親と同じ1535年生まれであれば、享年は1569-1535=34と若いが、徳川家康は、1569-1542=27歳とさらに若い。

(つづく)

 

ちなみに……。ドラマで違和感があったのは、辞世の署名が「政次」、処刑場での呼び名が「小野但馬」だったこと。

──逆ではないか?(署名が「小野但馬守」、呼び名が「政次」)
このドラマでは、「小野」は「奸臣」という肩書の名、「但馬守」は「今川の犬」という肩書の名で、「鶴丸」「政次」が肩書の無い本当の名、素の名という設定なので、本心を詠んだ辞世の署名が肩書の無い「政次」で、処刑場での呼び名は、奸臣であり、「今川の犬」の「小野但馬」だったのであろう。

残念だったのは、最後に槍を落としたことだ。
あれは「大切な人を殺してしまった」という自責の念や、茫然自失の表現に取られる。

槍を地面に突き立てて欲しかった。

私が演出家であれば、右手に槍を持って、近藤康用をにらみながら近づき、「次は俺を刺すのか?」と近藤康用がひるむと、近藤康用を睨みながら、さっと右手を伸ばして足軽に槍を返し、近藤康用に目で「これで気が晴れたか? もう、終わりにしましょう」と語り、近藤康用が「承知」とばかりに軽く頷くと、一礼して去って行くって演出にします。

※井伊直虎が小野政次に槍を突き立てたのは、「愛する人を他人に殺されるくらいなら自分が」だとか、「究極の愛の形」と言ってる方がおられるが、違うであろう。
愛する人を殺す時は、涙が出るものである。
二人の関係を表す言葉を、私も小野政次も知らないが、「戦友」?

小野政次「なつ、此度の事が終われば、俺と一緒にならぬか?」
奥山なつ「事が成れば、次郎様の還俗も叶う事になりますが、よろしいのですか? ずっとそれをお望みになっておられたのでは?」
小野政次「上手く伝わらぬかも知れぬが、私は幼き時より、伸び伸びと振る舞うおとわ様に憧れておったのかもしれん。それは今も変わらぬ。殿をされておられる殿が好きだ。それは、身を挺してお助けしたいと思う。その気持を何かと比べる事は出来ぬ。捨て去る事も出来ぬ。生涯、消えることはあるまい」

小野政次にとって井伊直虎は、「自分が持っていないものを持っている憧れの対象(不可侵のアイドル)」ということか? 今で言えば、「歌手のAちゃんが好きだ。歌っているAちゃんが好きだ。でもAちゃんとは結婚したいとは思わない」ということなのか?

小野政次が好きなのは、奥山朝利の娘(亥之助の母)で、井伊直虎が好きなのは龍雲丸?
いずれにせよ、二人を結びつけているのは「恋愛感情」ではない。

小野政次にとって、今の井伊直虎は、「深い信頼関係で結ばれた主人」であろう。

 

【今回の言葉 「修正会」】

【読み方】 しゅしょうえ
【意味】 仏教寺院において、毎年正月に、新たな年の幸を願って行われる法会。「正月会」「修正月会」とも。起源は中国の年始の儀式だとされるが、日本の修正会は、護国仏教の思想と、春迎えの民間習俗が混合したものとなっている。

引佐では「おくない」(「行い(おこない)」(作法)の転訛)という。

《引佐のおくない》
三日堂 寺野 宝蔵寺観音堂
四日堂 渋川 万福寺薬師堂
五日堂 懐山 新福寺阿弥陀堂
五日堂 神沢 万福寺阿弥陀堂
六日堂 黒沢 峰福寺阿弥陀堂
七日堂 滝沢 安楽寺大日堂
八日堂 川名 福満寺薬師堂

川名で1月8日(現在は1月4日)に八日堂で行われる「おくない」は、「火踊り」が印象的であるので、「ひよんどり」(「ひおどり」の転訛)と言う。
川名川で禊(みそぎ)をした若連が、八日堂(川名福満寺薬師堂)で火に炙られて大人になるという通過儀礼でもある。
※堂約束:川名のひよんどりの時、福満寺薬師堂の前でプロポーズすると、必ず結ばれるという。

「ひよんどり」が行われる福満寺薬師堂(川名)

「川名のひよんどり」現地案内板>

「国指定重要無形民俗文化財
川名のひよんどり
平成六年十二月十三日指定

公演日 一月四日
川名のひよんどり祭礼は、福満寺薬師堂で行われる。遠江から三河にかけて現存する田遊びの一類で、五穀豊穣、子孫繁栄、家内安全を祈願して行われ、これに火祭りが結びついている。
福満寺は伝承によれば、別当十二坊を数えた大寺で、本尊の薬師如来は、奈良時代の高僧行基の作といわれた。この像は、山吉田の満光寺と春山の薬師堂のものと同木であると伝えられる。しかし、応永年間の火災によって焼失し、現在の本尊は応永三十三年(一四二六)
に新たに刻まれたものである。ひよんどり祭礼もその頃には既に行われていたものと考えられる。
前半の松明を用いた祭礼は若連の手に委ねられており、後半の堂内における祭礼のうち、芸能の部分も主に若連がこれを担う。
一、イナムラの舞は、体に連縄をつけ、その姿は藁で作ったイナムラが増大する様を演じてみせ、豊作を願う勇壮な舞である。
二、はらみの舞は、腹に布団などをいれて女郎面をつけて舞う。この舞が始まると小禰宜の人達は、オブッコ作りのために席を外す。
三、田遊びが終わる頃、出来たオブッコを背負い薬師堂に参詣に来る。その後、汁かけ飯を参列者で共食し祭礼を終了する。
特に、寒風吹きさぶ寒夜に川名川で身を清める水垢離と、堂前での夜空を焦がす大松明と若連のもみ合いは実に豪壮である。このもみ合いの印象から「火踊り祭り」がなまって「ひよんどり」と呼びならわしている。

浜松市教育委員会」(現地案内板)

 

 

キーワード:小野政次の動向

今回の小野政次は、全ての罪を背負って磔になったキリストを思い起こさせます(BGMが西洋の聖歌のようでした)が、史実は……

永禄11年12月15日(1569年1月12日)未明 井伊谷城落城
永禄12年3月27日(1569年4月23日) 堀川城落城
永禄12年4月7日(1569年5月3日) 小野政次処刑(斬首)
永禄12年5月7日(1569年6月1日) 小野政次の2人の息子処刑

12月15日に井伊谷城が攻められました。敵は大軍、こちらは小軍です。
しかも、夜明け前で、戦いの準備が出来ていなかったので、小野政次は逃げ、城兵も追い掛けられて討たれました。
大軍が攻めてくることが分かっていたのですから、井伊谷城にいないで、三岳城に篭もるべきであったと思います。

井伊谷城(城山城)

このとき城主であった小野政次は、通説では気賀の堀川城(今川方の城)へ逃げたとされますが、俗説では山中の洞窟に逃げたとしています。ドラマでは、山中(川名の隠れ里)に逃げたとしていますね。
ワタシ的には、俗説を採用し、子供の頃、龍宮小僧を探して、山伏の死体を発見した洞窟に逃げ込んで欲しかったです。

翌年3月27日に堀川城が落城すると、小野政次は捕らえられ、気賀ではなく、井伊谷の井伊家仕置場(処刑場)で4月7日に処刑(斬首)されました。
このとき徳川家康は、処刑の理由を「主人(井伊直親)を讒言で誅殺させた奸臣であるから」としました。
そして、後に、徳川家康は、虎松(井伊直政)と会った時に、「そなたの父は、儂に内通したと讒言されて誅殺されたのであり、その死は、儂とは全く無関係ではないので、申し訳なく思う」と言って召し抱えたそうです。

小野政次の命日は新暦5月3日。
さて、彼の心は五月晴れであったか、曇っていたか?

小野家を絶やすために、1ヶ月後、2人の息子たちも処刑されました。なぜ同時ではなく、1ヶ月後なのかは不明です。ドラマの設定では、小野政次は未婚で、子はいません。人生の全てを井伊=井伊直虎に尽くすことだけに使ったという設定なのでしょう。

こうして小野政次の家は絶え、現在の小野家は、浜北区尾野小野街道(「街道」は「カイト(垣内・垣外)」の転訛)の小野本家と、小野政次の弟たちの家です。

 

史料:『菅沼家譜』「菅沼定盈」

井伊谷の三士を先客として、定盈、先陣に進む。井伊谷掻上城を未明に攻めければ、敵、周章働かず、一戦に及ばず逃行す。跡を躡して之を討つ。刑部城は定盈一手を以て之を責める。敵、拒戦すと雖も終に落城也。即ち家従・菅沼又左衛門(定盈が叔父也)留まり、城を守る。刑部落城趣、家康公に申し断りて、定盈は浜松に赴く。

【大意】 「井伊谷三人衆」を先頭(道案内)とし、菅沼定盈率いる菅沼隊が先鋒であった。井伊谷の掻上城(土を掘って空堀とし、出てきた土で土塁を築いた城)を夜明け前に攻めたので、敵(井伊衆)は、周章し(慌てふためき)、戦わずに逃げたので、後を追って討った。(徳川家康は、瀬戸(岩瀬)で都田川を渡り、祝田城(井伊直親屋敷)に入って休息している時、菅沼隊に刑部城を落とすように命じたので)刑部城は、菅沼定盈率いる菅沼隊だけで攻めた。敵(城兵)は、拒戦(防戦)したが、終に落城した。そして、菅沼定盈は、家臣の菅沼又左衛門(菅沼定盈の叔父)を城代(城主は徳川家康)として刑部城に留め置き、「刑部城が落城した」と徳川家康に報告し、徳川家康と共に刑部城へ行き、そこから本坂越(街道)に入って浜松(当時は「引馬」)へと向かった。(一説に金指から宮口道(後の秋葉街道)、右折して二俣街道を通って浜松(あるいは見付)へ向かった。)

 

キーワード:小野政次の処刑場&墓所

小野政次は、井伊谷の井伊家処刑場「蟹淵」で処刑されたようです。

断首台(平らな巨岩)の上に座らされて、首を刎ねられたそうです。

井伊家仕置場の「蟹淵(がにぶち)」(モズクガニがうようよ V[゚H゚]V)

蟹淵があった大堰河原には、断首台や墓(「椿叟塚」)、中井家歴代宗主が代替わりの度に建てた供養塔があったそうですが、現在は護岸工事により、何もありません。

近所の方に工事前の様子をお伺いすると、「断首台(平らな巨岩)はあった」「墓(「椿叟塚」)は風雨で均されて無かったように思う」ということでした。(工事をした会社にはbefore&afterの写真があるよね? 拝見したいものです。)

「小野但馬守政次終焉の地」周辺(井伊谷)

A:井伊谷城(城山城)が築かれた城山。城山城は掻上城で、大軍の襲撃には耐えられない。大軍が襲ってきたら、三岳城に篭るのが常道。

B:三光坊跡。三光坊は、一宮神社の社僧が営んだ密教道場で、一宮神社は、岩屋稲荷の位置にあったが、現在は二宮神社に合祀されている。合祀後は、二宮神社の神宮寺になったという。宝永5年(1708)、三光坊前に中井直重の妻が聖観音石像を置き、中井氏直が地蔵菩薩石像を置いた。中井家は、二宮神社の世襲宮司家だという。
C:小野政次と2人の息子の墓。立石と平岩の2セットある。

D:小野政次供養塔群。中井家宗主が代替わりの度に置いたもので、「中井」と彫られている文字が分かるものもある。「桶狭間の戦い」で討死した武士の供養塔も含まれるという。

 

小野政次と2人の息子の墓

A1、B1:小野政次の墓

A2、B2:小野政次の2人の息子の墓

小野政次(A1、B1)と2人の息子の墓(A2、B2)です。

立石(A1、A2)と平岩(B1、B2)の2セットあります。

平岩(B1、B2)は、護岸工事の前からここにあったそうですから、小野政次と2人の息子の墓ではない可能性が高いです。

 

小野家墓所(龍潭寺)

小野政次役の高橋一生さんが「メインストリート」と呼んだ道の両側が小野家墓所で、正面が龍潭寺歴代住職の墓です。

小野政次と2人の息子の法名が『南渓過去帳』に掲載されているということは、南渓和尚が葬儀を執行したということであり、墓が龍潭寺にある可能性は高く、「どこかに小野政次の墓があるのではないか?」と考えられています。

単純に考えれば、一番奥から小野兵庫助、小野和泉守政直、小野但馬守政次の順ですが・・・。

・小野政次の法名「南江玄策沙弥」

・小野政次の2人の息子の法名「幼泡童子」「幼手童子」

※臨済宗の戒名の「位号」は、未成年は「童子・童女」、成人は「信士・信女」であり、厚い信仰を持った成人信者は「居士・大姉」という位号をいただけます。井伊家宗主のような大檀那の場合は、「~院殿~大居士」になります。

「沙弥(しゃみ)」を辞書で調べると、「①仏門に入り、十戒(沙弥戒)を受けた7歳以上20歳未満の出家男子。見習僧。②日本では、仏門に入り、剃髪して僧形にありながらも戒行を全うせず、妻帯して世俗の生活をしている者を「在家沙弥」と呼ぶ。」とあります。小野政次は、処刑時には「南江」という名の剃髪した僧だったことになります。ということは、小野政次が逃げ込んだ先は、堀川城でも、山中で、洞窟でも、川名の隠れ里でもなく、龍潭寺だったということでしょう。

伝・小野和泉守・但馬守親子の墓(龍潭寺)

実は、龍潭寺には、小野親子の墓と伝えられてきた墓があります。現在は、「五輪塔の主は不明。無縫塔は、小野政次とは戒名や没年が異なる。小野政直の六男(井伊谷近藤氏の祖・兵蔵)の墓では?」とされています。しかし、禅僧の墓によく使われる無縫塔(卵塔)が、小野政次の墓だと伝わってきたということは、小野政次が僧になったていた確率は高いのではと思います。

 

キーワード:但馬神社

小野政次は、今は、「地獄」ではなく、「極楽浄土」にいると信じたいのですが・・・。

小野政次を祀る但馬神社の案内板

小野政次は、怨霊となって中井氏に祟ったので、小野屋敷(井伊谷城三之丸・トップ画像)内に塚を築き、塚の上に祠(但馬社)を置いたそうです。

江戸時代になり、小野屋敷が、井伊谷近藤氏の陣屋になる時、井伊谷近藤氏が「別の場所に遷すように」と言ったので、但馬社は、二宮神社の鳥居付近に遷されました。

現在は「但馬神社」として、二宮神社の境内社である天王社に合祀されています。

二宮神社拝殿(左)と境内社の天王社(右)

「幽霊」(お化け)とは、この世に未練がある人の魂で、多くの人が見ます。「怨霊」とは、ある人に恨みがある人の魂で、恨まれている人が見ます。ドラマでは納得して死んでいったので、幽霊にも怨霊にもならず、魂はこの世に留まらず、地獄にあるはずです。

中井氏がなぜ小野政次に恨まれているのか分かりません。

一説に、井伊谷城の落城後に隠れていた小野政次を見つけて、徳川家康に隠れ家を密告したのが中井氏だからとも、中井氏は小野政次の妻の実家で、罪人故に墓を建てられないのを不憫に思い、「怨霊となったので、鎮める」という名目で墓を建てた(実際には怨霊になっていない)とも言われています。

 

キーワード:今川氏真の動向

武田信玄は、この今川攻めについて、同盟を結んでいた北条氏康には、「今川が上杉と結んで武田を滅ぼそうとしていることが分かったので、今川を攻めた」と説明しました。

しかし、北条氏康は、駿府今川館から掛川城へ逃げる時に今川氏真の正室・鈴(後の早川殿。北条氏康の娘)が輿に乗れず、徒歩で逃げざるを得ない屈辱的な状況であったことを聞くと、

──愚老の息女、乗り物も求め得ざる体、この恥辱、すすぎがたく候

と激怒し、武田信玄との同盟破棄を決意しました。

北条氏政(北条氏康の子)は、正室・黄梅院(武田信玄の娘)と離縁して武田家へ送り返し、12月12日に出兵、12月13日には早くも薩埵山に達して興津川以東を制圧します。武田信玄は、東の北条氏と西の今川氏に挟まれて身動きができなくなり、永禄12年4月24日早朝(26日とも)に撤退して、甲斐国へ戻りました。

これを「第一次駿河侵攻」とい います。

掛川城天守閣

※掛川城天守閣(写真):今川氏真が逃げ込んだ当時、掛川城には天守閣は無かったという。天正18年(1590)の徳川家康の関東移封により、掛川城には山内一豊が入り、石垣や天守閣を備えた「織豊城郭」(近世城郭)とした。安政元年(1854)の大地震(「安政東海地震」)で天守閣は倒壊し、その後、再建されなかったが、平成6年(1994)に再建された。日本初の「木造復元天守」(建築学の学術用語は「天守」であり、「天守閣」は俗語)であり、今では掛川市のシンボル(ランドマーク)となっている。

さて、今回は、「小野の処刑と堀川城の戦いと順序が逆だろ」とか、「磔ではなく、斬首だろ」と指摘して、「史実を曲げるな」とガンガン批判しようと思いましたが、驚天動地の結末に言葉を失い、批判する気を無くしました。

史実は史実、ドラマは創作です。

想像するに、小野の処刑と「堀川城の戦い」の順序を逆にしたのは牢破りに龍雲丸と龍雲党を使うため(「堀川城の戦い」後だと龍雲党は使えない)で、磔に変えたのは、首が飛んでは小野政次が喋られないからでしょうし、斬首では井伊直虎が引導を渡せないからでしょうね。

非力な女性が刀で敵を斬っても、着物と皮を切るくらいで、首は切り落とせないようです。女性が薙刀を使うのは、己の非力を遠心力で補うためだそうです。

長槍は重いけど、短槍なら女性でも、素人(普段は農業を営む足軽)でも扱うことが出来ます。

 

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

 

主要キャラの史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

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