身延道入口(静岡県静岡市清水区興津中町)

井伊家を訪ねて

大河ドラマ館もある気賀の今昔物語

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本放送で第25話である。
全50話であるから、今回で前半が終了。今年(2017年)も半分が終わった。
早い、早すぎる。

それにしても「材木を抱いて飛べ」とは、凄いタイトルだ。命令されても、スーパーマンでなければ無理である。
ただ、遠州弁で「とぶ」とは、「走る」「駆ける」の意であるから、力也さんであれば、「丸太を抱(かか)えてとべ」そうではある。

いい機会なので《主な遠州弁》を列挙してみよう。

いのく:動く。
うっちゃる:捨てる。
おっさま:和尚様。
おどける:驚く。
鍵をかう:鍵を掛ける。
くれてやる:あげる。
くろ:隅。
血が死んでる:内出血して黒くなっている。
ちみくる:つねる。
ちゃっと:急いで。
ちんちん:熱い状態。「ちんちこちん」とも。
とぶ:走る、駆ける。
とんます:捕まえる。
ぬくとい:暖かい。
はんぺた:半分。
ひずるしい:眩しい。
ひね:古い。
ぶしょったい:だらしない。
ぶつ:ぶつける。打つ。
ぶっさらう:殴る。
ほっぽかす:放っておく。
~まい:~しよう。「やらまいか」=やろうじゃないか。
・侍言葉に訳せば「やってみねば、分からぬではないか!」
・英訳すれば、Let's try! Let's challenge!

タイトルの元ネタになった映画『黄金を抱いて翔べ』のキャッチコピーは、
──札束より欲しいもの、おまえにはあるか?
であった。
瀬戸方久なら即、
──無い。
と答えるであろう。

1人で「地位」と「金」の両方を手に入れることは難しいが、「領主」という地位の井伊直虎、「豪商」の瀬戸方久、さらに、技術と実行力のある龍雲党が手を組めば、何でも出来そうである。「材木を抱いて飛べ」るかもしれない。

それにしても、万請負・・・龍王丸のモデルは、坂田銀時なのか?

 

第25話 「材木を抱いて飛べ」 あらすじ

材木を売って儲けたのはいいが、こともあろうに材木を買った商人(成川屋)は、「寺の普請用の材木」と偽って買い占め、三河国(徳川家康)に流そうとしているらしい。そして、駿府から商人が気賀に移っていることが面白くなく、気賀に城を建てて商人を取り締まろうとしている今川氏が、塩の密売をしているらしい成川屋を捜査したところ、成川屋が、「井」の焼印のある材木を三河国へ売ろうとしている事を知ったという。

「越後屋、お主も悪よのぉ」

「いえいえ、お代官様ほどでは」

このルーツは、越後屋が法外な値段で甲斐国や信濃国に日本海産の塩を売ったことにあるのかと思ったら、ルーツは「カンロのど飴」のCMだそうである。

この越後屋と共に悪徳商人の代表が三河屋である。前回、織田信長に「豆狸」と称された、狸親父・徳川家康のずる賢いイメージの屋号であるが、今回は「三河屋」と名乗ると、三河国との結びつきがバレバレなので、「成川屋」と名乗ったようだ。

──井伊に三河と内通したる謀反の疑い、これあり。ついては、駿府に申し開きに参るよう。(by 今川氏真

行けば、確実に殺される。かと言って、行かなければ今川軍に攻められる。いずれにしても、大ピンチである。この絶体絶命の大ピンチの井伊直虎を救ったのは龍雲党であった。

──待ってろよ~、尼小僧。(by 龍雲丸)

話は変わるが、井伊直虎については、残っている史実も、伝承も少ない。こういう場合、時代小説家はどうするかというと、井伊直政の史実・伝承を利用する。そして、「井伊直政がこうしたのは、井伊直虎がこうしたからである。血は争えない」と持っていく。

今回、井伊直虎は、龍雲党による木材の奪取が間に合うように、駿府への参上を遅らせるために、高熱が出る毒を飲み、三日間の遅参に成功したが、井伊直政も関ヶ原に向かう時に高熱を出し、数日間、生死の間を彷徨っている。侍医の看病も投薬も全く効果が無かった。侍医が言うには、徳川家康から頂いた劇薬があるが、

「生死、二つに一つ」(治る確率と死ぬ確率が半々)

だと言う。井伊直政が、

「飲むべきか?」

と問うと、

「病、ここに至りし上は、お用い遊ばされるよりほか無し」(ここまで病状が悪化しては、死を待つだけである。一か八か飲むしか無い。)

と言うので、飲むと熱がひいたという。そして、

「自分で良薬を調合できず、他人(徳川家康)が調合した薬を勧めるとは、お前はただの薬箪笥の番人か!」

と言って、この侍医を追放したという。あまりにも写実的で、「史実」だと思ってしまう話であるが、史実は「仮病」であり、仮病を使った理由は、①中山道を往く徳川秀忠軍が関ヶ原に着くまでの時間稼ぎとも、②東海道を往く徳川家康軍の軍監に福島正則が加えられたので、ちんぷりかえった(「ちんぷりかえる」は遠州弁で、「すねる」「不機嫌になる」の意)ともされている。①の「時間稼ぎ」であれば、井伊直虎と同じ目的であり、血のつながりを感じるが、どうも②の可能性が高いようである。

徳川家康軍の軍監は、当初は井伊直政だけであったが、8月4日、徳川家康が福島正則も軍監に任命すると、井伊直政は急病で倒れた。しかし、8月8日、急病の井伊直政に代わって本多忠勝が徳川家康の名代(徳川家康は出陣せず江戸城に残った)として出陣すると、突然、井伊直政は回復して追走し、福島正則と共に軍監を務めている。ちなみに、今回、井伊直政は、「一番」という言葉に敏感に反応する子として描かれている。「三つ子の魂百まで」という。「一番を取りたい」という気持ちは、関ヶ原の戦いでの福島正則との一番槍の争いに繋がる。

※毒:浜松の水産業と言えば、「浜名湖のうなぎ」であったが、スッポン、さらには「遠州トラフグ」と変わってきている。フグ毒は、井伊直平の毒害に使われたという。

フグ毒と並んで有名なのが「附子(ぶす、ぶし)」である。これは、トリカブト(ドクウツギ、ドクゼリと並んで「日本三大有毒植物」)の毒で、飲むと顔がゆがむので、ゆがんだ顔の人を「ブス」と呼んで侮辱するようになった。

■ まり先生の歴史診察室「もう1人の「おんな城主 お田鶴の方」 井伊直平に飲ませた毒茶はフグ&トリカブトのコンボ技?」

もう1人の「おんな城主 お田鶴の方」 井伊直平に飲ませた毒茶はフグ&トリカブトのコンボ技?

数日苦しむが回復する毒は、漢方薬(本草学)に詳しい昊天に頼めば処方してくれそうだし、中村屋に頼めば、南蛮渡来の毒薬(シェークスピア『ロミオとジュリエット』で修道僧ロレンスが用意した「仮死の毒」)でも用意してくれそうだ。(今回は毒と解毒剤を用意していた。薬を飲む時、外は雨であった。私なら「この雨で大井川は数日間、渡れないであろう」と投薬を控えるけどね。)

さて、今回の「三河国への材木販売事件」の弁明であるが、駿府今川館で、井伊直虎は、「井伊家は今川家の忠臣である」ということを今川氏真に訴えた。禅問答で鍛えただけあって、話の進め方は実に見事で、井伊直政の話の説得力、外交力のルーツを感じさせられた。

そして、龍雲党が、見事、材木を奪取して駿府に運び込んだ。これにより、今川氏真は、井伊直虎を誅殺する口実を失ったばかりか、材木を積み上げるというド派手なデモンストレーションにより、「井伊家は今川家の忠臣である」という事を、駿府中に知らしめる事となった。

(つづく)

 

今回の言葉 「人事天命」

【原文】 盡人事聴天命

【書き下し文】 「人事を尽くして天命に聴(まか)す」

【意味】 「人事を尽くして天命を待つ」として広まっているが、原典では、「人事を尽くして天命に任す」である。(「聴」には、「音楽や言葉を聴(き)く」(「聞く」はhearで、「聴く」はlisten)という意の他、「きき入れる。きき従う」「言う通りに任せる。成り行きに任せる」という意もある。)

「人間レベルで出来る限りのことをして、結果は天命(運命、神)に任せる」という意。

【出典】 胡寅『読史管見』(胡寅は南宋の儒学者、『読史管見』は「史書を読んでの愚見」の意。)

人生には、どんな頑張っても、努力しても、出来るかどうか、成功するかどうか分からないが、やらねばならぬという局面がある。
そんな時は、ともかく、やれるだけの事をやり尽くして、あとは、結果待ちとなる。全力を尽くしておけば、どのような結果が出ようとも、悔いは残らない、後悔しない、結果を受け入れられる。

前回から大人になった井伊直虎は、駿府に呼び出されても動じず、

「どーしたものかのぉ」(『トト姉ちゃん』の口癖「どーしたもんじゃろのぉ」の侍言葉訳)

と言って、小野政次とテレパシーを使って(?)碁を打った。

①材木を買い戻す。

②①が無理なら別の材木を用意する。

③②が無理なら、龍雲丸に頼んで材木を奪い返す。

これが、碁を打ちながら小野政次の念と共に考えた「人事」である。

成功すれば「努力を天が認めてくれた」ということであり、失敗すれば「運が無かった」ということであるが、

──本当にそうなのか?

失敗の原因は、努力が足りなかったからではないのか?

まだ出来ることがあったのに、やらなかったのではないのか?

「今回は失敗した。次は頑張ろう」

とやり直しがきく事も多々あるが、戦国時代は、失敗は死を意味した。次は無い。今回、井伊直虎は、死を覚悟していたと思われる。

──井伊直虎は助かった。助けたのは天か? 神か?

いや、助けたのは「人」である、龍雲丸である。

考えてみれば、「人事を尽くす」という段階で既に人事を尽くせるような環境を整えてくれた周囲の人達に助けられている。

「天は自ら助くる者を助く(Heaven(God) helps those who help themselves.)」とか、「神を信じる者は、神によって救われる」というが、人を救えるのは人であろう。(と、無神論者的発言をしたが、努力している人を助けた人は、天や神が頑張っている人に遣わした人なのかもしれない。)

龍王丸は、井伊直親が「俺にもしもの事があったら、井伊直虎を頼む」と託していた人かもしれないし、天や神が遣わした人、あるいは、龍雲=龍神であって、神そのもの(神の化身)なのかもしれない。

 

キーワード:「身延道」

「身延道」の江戸時代の正式名称は、「駿甲脇往還」です。駿河国では「甲州往還」「甲州道」、甲斐国では「駿州往還」「駿州道」と呼びましたが、各所の道標には「身延道」と彫られています。「身延道」は、日蓮宗総本山・久遠寺と開祖・日蓮の廟所に詣でる日蓮宗の信仰の道ですが、古くは太平洋産の塩を甲斐国や信濃国へ運ぶ「塩の道」であったようです。

江戸中期以降の「身延道」の終始点は興津ですが、興津コースが知られたのは、興津に塩の密輸出を取り締まる関所が置かれてからの話で、今川義元の娘・嶺松院殿が武田義信に嫁ぐ時には古い身延道(由比コース)を使っています。興津コースが正式に身延道となったのは、亨保9年(1724)に甲府勤番が儲けられて以降です。

興津に関所が設けられたのは、いつの事か分かりません。(永禄12年(1569)には関所があったことは分かっています。なお、有名な「清見関」が設置されたのは古代(660年頃)です。)関所は、「塩留」が始まった永禄11年(1568)に設置された可能性が高いとされてきましたが、大藤文書(永禄10年6月25日、甲州向けの塩商人(密輸業者)を討取った相模国の秦野城主・大藤氏(北条家家臣)に今川氏真が出した感状)により、「塩留」は、今川氏と、同氏と同盟関係にあった北条氏との共同歩調で永禄10年(1567)から行われたことが判明しました。

身延道入口の案内板

 

キーワード:「気賀」

気賀には大河ドラマ館があるので、気賀は井伊谷とセットで観光客が訪れています。

気賀に行くには天竜浜名湖鉄道が便利で、大河ドラマ館は、気賀駅から徒歩1分です。とんでけば、1分もかかりません。

井伊直虎ラッピング車両(天竜浜名湖鉄道「気賀駅」)

太平洋戦争の金属供出令を避けた長楽寺(静岡県浜松市北区細江町気賀)の梵鐘の銘(静岡県では2番目に古い鐘銘)に、

「遠江国引佐郡氣賀庄長楽寺 嘉元三年乙巳四月十日鋳之」

とあることから、嘉元3年(1305)には、「気賀庄」があったことが分かります。

静岡県指定文化財・梵鐘(長楽寺)

※鐘の鋳造技術を持った人を「鋳物師(いもじ)」と呼びます。戦国時代の鋳物師は、大砲などの兵器を製造する職人でした。井伊直虎時代の気賀には多くの鍛冶屋がありました。刀鍛冶や鋳物師もいたことでしょう。

「気賀庄(けがのしょう)」は、長楽寺の梵鐘が鋳造された嘉元3年(1305)よりも前の安貞2年(1228)には既に存在していたことが、「修明門院処分状案」(東寺百合文書)により、分かっています。

気賀庄は、七条院坊門殖子(後鳥羽天皇の母)から修明門院藤原重子に譲られました。その後、皇室領となり、南北朝時代は後醍醐天皇(南朝)領で、井伊介が代官となったことから、宗良親王(後醍醐天皇の皇子)が、井伊介(北朝方)に南朝方への寝返りの要請するために井伊谷へ来られたようです。

東寺百合文書「修明門院処分状案」(安貞2年(1228)8月5日)

永禄3年(1560)の「桶狭間の戦い」後、井伊氏が衰退すると、「井伊谷七人衆」の新田友作が気賀領主になったと伝えられていますが、ドラマでは、井伊直虎時代の気賀は、「武士のいない商人の自治村」(九龍のイメージ)だとしています。(史実は「浪人と鍛冶屋と貿易商が住む港町」(梁山泊のイメージ)だったと思われます。)

また、気賀領主というわけでは無いようですが、気賀では、「気賀氏」が興りました。永禄3年(1560)の「桶狭間の戦い」の戦死者のリストに「気賀庄右衛門」の名があります。また、気賀氏は、永禄7年(1564)に今川氏真に背いた罪で捕らえられ、成敗されそうになりましたが、翌・永禄8年(1565)、匂坂六右衛門入道(匂坂長能)の懇願によって許されています。

【史料】『今川一族向坂家譜』より「今川氏真判物(写)」

(今川氏真判)

同名中并牧野伝兵衛、高林源六郎、気賀伯父・甥、此人等、去年、令逆心之条、雖可遂成敗、長能入道依無無沙汰令懇望之条、各免除、然者自今以後可抽忠節之旨、三縁右衛門大夫父子言上之旨、横合之申状於在之者、彼両人遂糺明可決是非者也。仍如件。

永禄八年十二月廿六日

匂坂六右衛門入道殿

※匂坂氏:磐田市の匂坂地区に興った武士の一族。今川家臣で、奥山氏に仕えたこともある。また、関口氏が関口庄(長沢古城)から持舟城に移ると、長沢古城に城代として入った。井伊谷徳政令では、関口氏の使い走りにされて苦労している。

 

《気賀の領主》

ドラマでは気賀は井伊領ではないとしています。

小野政次「井伊ではなく、気賀の話にございます。いらぬ首をつっ込まれませぬよう」(井伊の領主が、井伊領ではない気賀(龍雲丸)に関わって、振り回されぬように。)

桶狭間の戦い」後の気賀の領主は、通説では、新田友作ですが、ドラマでは町衆が治める村で、町衆のまとめ役が中村重益ですが、龍雲党に変わろうとしている様子が今回描かれました。その一方で、今川氏真は、この気賀に城を築き、その城主を領主にしようとしているようです。

春(早川殿)「何かお考えの事でも?」

今川氏真「気賀は誰に任せればよいかと思うてのぉ」

春(早川殿)「三浦様が名乗りを挙げたとお聞きしましたが」

今川氏真「三浦にばかり手厚うしてものぉ」

『甲陽軍鑑』では、今川氏没落の原因を、今川氏真が、三浦義鎮を寵愛して政務を任せっきりにしたからだとしています。この三浦義鎮が常に今川氏真の側にいるはずですが、このドラマでは、井伊谷徳政令の関係なのか、関口氏経が常に今川氏真の側にいます。

 

《気賀今昔》

昔の気賀と、今の気賀の大きな違いは、「都田川」の流路です。

昔の気賀(浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館所蔵「荒所起き返り絵図」)

今の気賀

都田川と井伊谷川は合流して「落合川」となります。

今は「新川」として細江湖(浜名湖、引佐細江)に町の東端で注ぎ込みますが、昔は町中を通る「大川」(現在の葭本川、堀川、要害堀)となって町の西端で細江湖に注ぎ込んでいました。河口を「大江」と言い、港を「吉村湊」と言いました。大川自体も細長い湊「細江」であり、後に「気賀湊」と呼ばれるようになりました。

葭本橋(このあたりが井伊直虎時代の港「吉村湊」)>

気賀の中心地は、西の吉村(下村)でしたが、洪水被害を避けるために新川が掘られると、中心地も東の新村(新宿、上村)に移りました。

また、徳川領になると、奉行の本多重次は、宇布見から中村重益を呼び、新田友作が進めた堀の整備を受け継がせると共に、気賀湊を整備させました。

気賀に築かれた城は「堀川城」です。「首塚」の北の「堀川」と呼ばれる島(中洲)で、そこに、今川氏が、斯波方の井伊氏(三岳城)と大河内氏(引間城)を分断するために、堀川城(刑部城の出城)を築きました。

この「堀川」は、式内・屯倉(みやけ)神社があった場所で、その南には「大鳥居」という屯倉神社関連地名があります。

首塚

※「首塚」の北に堀川城があったのですが、首塚は区画整理の時に現在地に移され、首塚の元の位置や堀川城の位置は、はっきりしていません。

 

 

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