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今切の鳥居型観光タワー(東海道本線・新幹線、国道1号線から確認できる!)

井伊家を訪ねて

浜名湖水運の要衝・気賀(けが) 支配者武将のいない湿地帯に流れ者たちが集った!?

奈良官道(奈良時代の官道、東海道)は、湖北(浜名湖の北)を通っており、『万葉集』には、「引佐細江のみおつくし」等、湖北の地名や風景を詠み込んだ防人歌が載せられています。

しかし、湖南(浜名湖の南)で窯業(湖西古窯群は、100ヶ所、200基)が発達すると、東海道は湖南に移り、湖北の本坂越えの道は「ひね街道」(「ひね」は遠州弁で「古い」の意)、後に「姫街道」(「ひめ」は「ひね」の転訛。異説あり)と呼ばれたようです。

奈良時代の浜名湖。広さは現在の北半分で、湖水は浜名川によって遠州灘(太平洋)へ流れ出ていた。なお、中央上部の「引佐郡伊福郷」が気賀である(舞阪郷土資料館)

ところが、ところが、明応7年(1498)、なんと、なんと、超巨大地震が発生! 浜名川が山津波で塞がれると、浜名湖の水が溢れ、新たな湖水の排出路が出来ました。この排出路を「今切(いまぎれ)」と言います(今は「新旧」と言いますが、昔は「古今」でしたから、「今切」は「新切」、「今橋」は「新橋」のことです)。

地震が収まると、浜名湖の面積は倍に広がり、今切口はどんどん広まって、舟を使わないと渡れない状況になってしまいました。そして、淡水湖であった浜名湖は汽水湖となり、その水は塩辛くなりました。

東海道も「舟を使うのは不便」だとして、湖北(本坂越え)に戻りました。そして、この天災により、「交通の要地」として注目され始めたのが、太平洋と繋がった吉村湊(後に東に移動して気賀湊)と、その周辺地域(気賀、井伊領)です。

前にも書きましたが、領地の殆どが山である井伊家の財源は、運輸業(本坂越え・鳳来寺道(信州街道)の陸上運送)と貿易業(吉村湊(後に気賀湊)からの水上輸送)にあると思われます(江戸時代の旧・井伊領の支配者である近藤氏は、林業に力を入れました)。井伊領の位置は、平野部と山間部の境界ですので、主な貿易品は、「三河塩」(三河国吉良(愛知県西尾市吉良町)などで生産された塩)だったようです。

 

第21話 「ぬしの名は」 あらすじ 

──頭、名は何というのじゃ?(by 井伊直虎)

──龍雲丸だ。(by 龍雲丸)

「旅の男」「盗人」。しかして、その実態は、龍雲党の頭・龍雲丸であった! ここに、龍(青龍)に虎(白虎)、亀(玄武)に鶴(朱雀)と、役者は出揃った!

龍雲党のメンバー/NHK公式サイトより引用

・龍雲丸(りゅううんまる) 柳楽優弥さん
神出鬼没の風来坊で、その実体は盗賊団のかしら。ひょんなことから城主となった直虎と出会う。

・モグラ マキタスポーツさん
龍雲丸率いる盗賊団の一味。甲斐の金山あたりから訳あって流れてきたらしい。穴掘りが得意なので「モグラ」と呼ばれている。一味の中では年嵩で、龍雲丸も一目置く。

・力也(りきや) 真壁刀義さん
龍雲丸率いる盗賊団の一味。木を伐る技術を持っているが、訳あってふるさとの村にいられなくなったらしい。見た目通りタフな力自慢で、「力也」と呼ばれている。

・カジ 吉田健悟さん
龍雲丸率いる盗賊団の一味。みなしごで、幼いころから船乗りの元で下働きをしていた。ある時龍雲丸に拾われて、一味に加わることに。船を操る技術を持つことから「カジ」と呼ばれている。

・ゴクウ 前田航基さん
龍雲丸率いる盗賊団の一味。みなしごで、幼いころから船乗りの元で下働きをしていた。海が荒れた時に人身御供として海に投げ込まれたが生き延びたという強運の持ち主。カジと同じく龍雲丸に拾われた、一味のマスコット的存在。

龍雲党は、「盗賊団」だというが、坑夫、樵、船乗りが集まった「職能集団」らしい。「サンカ」なのか? 相棒の『日本史広辞典』(山川出版社)でひいてみた。

サンカ……定住地をもたずテンジン(自在鉤)・セブリ(天幕)のほか簡単な家財道具をたずさえ、山間・水辺を移動しながら箕(み)の製作・修繕などで生計をたてた集団とされる。山間の農民が箕を作り、売り歩いた姿の反映とみる見解もある。その言葉には、香具師(やし)の隠語と共通する部分がある。芸人や職人をはじめ種々の人々が紛れ込み、一部からは犯罪者集団のようにみられた。一九六〇年代頃までは姿が確認できたが、義務教育をはじめ国家の体制にとりこまれて同化が進み、実体はほとんど不明となった。散家・山家・山稼・三家ともあてるが、語源は不詳。流布している山窩の語は穴居生活を意味してそぐわない。

「党」を『日本史広辞典』(山川出版社)でひくと「平安後期~中世に存在した武士の連合体」とあった。

龍雲丸は武士なのか? 漢字を書けたり(瀬戸方久を拉致して徳政令の要求をした農民の字とは大違い)、亀之丞が息子・井伊吉直に渡した短刀にそっくりな短刀を持っていたり、亀之丞が隠れていた松源寺の山号が「雲龍山」だったり・・・先入観を持って見ると、柳楽優弥さんが、三浦春馬さんと菅田将暉を足して2で割ったお顔に見えてくるのは不思議である。

いずれにせよ、龍雲丸の正体は、第27話で明かされるというから楽しみである。

さて、今回は異業種交流会である。
商人の中村与太夫、そして、盗賊の龍雲丸。
まずは、商人の中村与太夫との交流。

木綿布の売り先を聞くと、気賀の港は世界に繋がっているから、
──「異国にも売り先を求めることが出来ます」(by 中村与太夫)
と話がでかい。

感化されたのか、井伊直虎も「奪い合わずとも生きられる世をつくり出せばよいではないか!」という大きな夢(これは、後に徳川家康の「厭離穢土 欣求浄土」にリンクするハズ)を語り、龍 雲丸に「世?」と驚かれている。
※木綿布の販売って・・・「三年荒野」(休耕田を再開墾すれば3年間年貢無し)である。荒野を開墾して綿花を栽培し、木綿布を織れば、全て自分の物であり、3年間は年貢として納めなくてもいいハズ。瀬戸村の木綿布は領主・瀬戸方久の手には3年間は渡らないハズ。いずれにせよ、今の段階では、自分たちで着る分のみの生産量で、売るほどの量は無いハズ。

龍雲丸との交流では、
──領主なんてな、泥棒も泥棒、大泥棒じゃねぇか。(by 龍雲丸)

盗賊=犯罪者に「お前こそ大泥棒=大犯罪者」と言われたら捨て置けない。
──領主は大泥棒なのか?
井伊氏と松平氏で考察してみる。

(1)井伊氏の場合 井伊谷が「井伊荘」と呼ばれる前は「三宅荘」と呼ばれていた。中央政府の藤原氏(藤原共資)が遠江国司として赴任すると、三宅荘の荘司の三宅氏は、娘を藤原共資と結婚させ、生まれたのが初代様(井伊共保)だとする説と、三宅氏の息子と藤原共資の娘が結婚して生まれたのが初代様(井伊共保)だとする説がある。前者であれば、三宅氏が「藤原」という姓を得て、「井伊氏」と名乗って君臨したことになり、後者であれば藤原氏が三宅荘を奪い、「井伊氏」と名乗って土着し、君臨したことになる。三宅氏の始祖は、日本に橘を伝えた人物(田道間守)で、家紋が橘であることや、藤原共資が三宅荘に住まずに村櫛の志津城に住んだことを考えると、前者が正しいように思われる。「それは井伊が鎌倉の公方様よりあの土地を任されておるからじゃ」(by 井伊直虎)という話は初耳である。

(2)松平氏の場合 松平氏の始祖・松平親氏の正体については、時宗の遊行僧・徳阿弥だとされているが、徳阿弥は後の時代の人物であり、実は「旅人」(『松平太郎左衛門信言家伝』)、「流人」「牢流の者」(『松平氏由緒書』)であるという。そして、松平郷にたどり着くと、領主である在原松平氏の娘・水(水女、水姫)と結婚して松平郷の領主となると、周辺を征服していった。『三河物語』に「あたりを戮(き)り取らせ給ふ」、『徳川幕府家譜』には「此治世、天下動乱して、強は弱を椋取り、主を殺し、地頭を討ち、その領を奪い取る兵乱の最中なれば、親氏、一類縁者を語らひ、一揆を企て、近村・隣里を討ち取り、武威を国中にふるいしかば、大略、下知に随ひけり」とある。(研究者によれば、松平親氏の時代は戦国時代ではないので、武力による征服は考えられず、金融業で得た金での「買得」(土地の買い取り)ではないかという。)

松平親氏(松平郷)

松平親氏という領主の立派な点は、24人の職能集団(主に土木業)に「十二具足」(12種類の道具)を持たせて、共に領内を視察して回っていたことである。(主な活動は、道路の拡張と保全であったという。)この先、井伊直虎も龍雲党を引き連れて、領内を巡回するようになるのか?

 

今回のロケ地はどこでしょう?
井伊直虎が救い出されたのは、あの地図だと小野山の小野八幡宮っぽいですね。
小野山と坂田山(現在の稲荷山)は、井伊谷の南に仁王様のように聳え、砦(井伊谷城の出城)が築かれていました。

小野八幡宮

「神宮寺」は複数あるので・・・よく分かったなと(苦笑)

撮影協力地は、
・静岡県浜松市
・茨城県常陸太田市(里川町小里財産区有林)
・茨城県笠間市(笠間城)
・茨城県石岡市
http://www.city.ishioka.lg.jp/page/page004538.html
とのこと。

さて、古代では土地は誰のものでも無かったのに、「山論」「水論」に発展しかねない今の世は、龍雲丸のような「自由人」には住みにくい世である。
かと言って、「古代に戻せ」という主張は非現実的で、今、出来ることはと言えば、「井伊領だけでも、奪い合わずとも生きられる土地にすること」であり、それは、領主と結託すれば、出来る事なのかもしれない。戦いの絶えない世界の中で、井伊領をスイスのような永世中立国に変えられるか?

──虎と龍による世直しが今始まる。
「人の夢」と書いて「儚(はかな)い」と読む。
二人の挑戦は、成功するのか、儚く散るのか?

(つづく)

 

今回の言葉 「平等」

「平等は善の根源、不平等は悪の根源」という。
龍雲丸は、「取る側(領主、武士)と取られる側(庶民)」に分かれているのが不平等だと感じ、権力者からのみ奪う義賊・石川五右衛門のような行動を取っていた。党員の子供が万引きしたのは、井伊直虎が権力者に見えたからか? その割 には「領主だ」と言っても、「(気賀だけに)気がふれた?」と信じなかったが。

10円玉を見るたびに、平安時代に既に「平等」という言葉があったことに驚かされる。
「平等院」の「平等」は、仏教用語の「平等」であり、それは、「仏の救済は全てに平等」という意である。そして、仏の救済の平等性は、光で表される事が多い。

そういえば、「一隅を照らす」の意味は、原典では「国境警備隊が自分の持ち場を照らしているので、他国民(敵)の侵入を防ぎ、国民の安全が保たれている」という意味で使われ、本来は「自分のいる場所を照らしなさい」「自分が守っている社会的立場(ポジション)をしっかりと守りなさい」という意味である。

が、「社会の片隅の光の当たらない場所にいる人を照らすことの出来る人が立派な人だ」と誤用される事がある。仏の救済の光は、中央だろうと、隅っこだろうと、等しく当てられているので、その心配はご無用である。

「一隅を照らす」

現代社会において、人は法の下に平等である。

どんなに残忍な殺し方をしても、殺した人が1人であれば、「平等に」と他の1人だけ殺した殺人犯同様、無期懲役になり、死刑にはならない。(裁判員裁判を導入した意味がない?)

──現代社会の不平等は「格差」であろうか?

「格差」は政治の問題だという。
ある識者が「個人の問題とも考えられる」とし、「持てる者が持たざる者に与えれば(寄付、カンパ)すればよい」おっしゃられたが、日本人は団体に寄付することはあっても、個人には、その人が政治家でなければ、まず寄付はしない。困ってる一個人を助けようとしない。これは、「寄付文化」が根付いていないからである。

キリスト教が普及している国では、たとえば『聖書』(新共同訳「イザヤ書」58:7-8)に

58:7 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。
58:8 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。

とあるように、困っている人を助けることは、その人を救うだけではなく、自分も救われるので寄付するのである。

今回、ドキッとしたのは、井伊直虎の次の言葉。

──追い詰められれば人は盗む。百姓に生まれようが、武家に生まれようが、人とはそういうものじゃ。故に我もそなたも等しく卑しい。一人の人としてな。(by 井伊直虎)

子供の頃に蕪を盗んだ話から「我もそなたも等しく卑しい」に繋げるとは、凄いです。「卑しい」「お腹がすく」という意味では同じ(平等)です。

あと、龍雲丸が無礼者で、井伊直虎が領主だからと言って、畏まったり、萎縮したりしていないところがいい! これは、

──彼は人なり。我も人なり。我、何ぞ彼を畏れんや。

と言うことかな。

 

キーワード:気賀

気賀は葦(ヨシ)が生えてる湿地帯で、「吉村」(現在の葭本(よしもと)が中心地)と言ったそうです。
徳川領となると、本多作左衛門重次が奉行に任じられ(永禄12年(1569)~天正13年(1585))、本多重次は、中村与太夫を代官に任命し、新町(新宿)の建設を行わせました。この新町が置かれたのが「蹴川」(けかわ)で、後に「気賀」(けが)となったそうです。(その語源は「欠川」(かけがわ)で、「欠」は「崖」の意だそうです。)

天竜浜名湖鉄道・気賀駅(大河ドラマ館まで徒歩1分)

※国鉄・二俣線(現在の天竜浜名湖鉄道)開通時に、「けが」は「怪我」に繋がるとして、漢字表記はそのままで、読み方だけ「きが」に変えたそうです(「怪我」って鉄道事故のことでしょうか? 「飢餓」もちょっと・・ ・)。

いずれにせよ、井伊直虎時代の読み方は「けが」です。

吉村は三宅(屯倉、みやけ)、つまり、天皇の直轄地であり、式内・屯倉神社(後に改修して堀川城)がありました。
南北朝時代は後醍醐天皇領で、宗良親王がやって来られ、井伊氏に援助を要請したそうです。井伊氏は鎌倉時代の御家人で、室町時代も幕府側(北朝方)でしたが、娘との結婚を条件に南朝方に寝返り、井伊重子(駿河姫)は、宗良親王との間に尹良(ゆきよし)親王を儲けたそうです。(異説あり)

葭本川(『万葉集』では「吾跡川」)河口沖の澪つくし。ここに吉村湊があったという。「細江」と言うからには、細長い入江状の湊であったと考えられる。

井伊直虎時代の気賀の領主は、新田友作(その正体は、新野親矩が呼び寄せた清水城主・名倉伊茂。井伊直盛時代の「井伊谷七人衆」の1人であったが、「桶狭間の戦い」後、独立して気賀領主となった)と伝えられていますが、『井伊直平公一代記』には、元井伊直平家臣・新田喜兼とあります。

「遠州気賀領主新田左衛門入道喜兼(元直平ノ家臣也)」(『井伊直平公一代記』)

気賀には新田友作を頂点に、その家臣の石田党、丸井党、蒲生党、中村党が集まっていました。
また、今川氏真は、徳川家康の遠江侵攻に備え、刑部城や堀川城の改修工事を命じました。そして、両城に入ったのは、各地から集まってきた浪人でした。
このように、気賀は各地から集ってきた浪人の溜まり場で、湿地帯であることからも、中国の「梁山泊」のイメージかな。

ドラマでの気賀は「武士のいない商人の町」であり、町衆の元締め的存在は中村与太夫だとしています。遠江国で言えば見附、全国で言えば堺のような「自由な町」という設定のようです。「自由人」の龍雲丸が好みそうな町です。

※『都田村年代手鑑』(金原(下都田村の庄屋)文書)に
「慶長元年申年二月より金指に市場始り申候」
「寛保二年戌年気賀に市場初り候」
とある。
つまり、金指の市(3と8の付く日、月6回開催の「六斎市」)は1596年に始まり、気賀の市は1742年に始まったのであって、井伊直虎の時代に市場はなかった。ただ、気賀の対岸の刑部城下では、瀬戸方久が一時的に市を開いていたと思われる。

中村与太夫は、下の写真の墓誌に、天正2年(1574)2月8日生まれ、慶長16年(1611)7月17日、59歳で没とありますが、計算が合いません。(ちなみに、天正2年2月8日は、徳川家康の次男・於義丸が生まれた日です。)「慶長16年に59歳」だとすると、生まれは、1611-59=1552(天文21年)となり、永禄9年(1566)の時点では、1566-1552=14歳になります。まだ、宇布見に住んでいたことでしょう。

 

キーワード:三人の中村氏

「中村」と聞いて、頭に浮かぶ人物が3人います。

1人は宇布見(うぶみ。静岡県浜松市西区雄踏町宇布見)の中村氏、もう1人は気賀(静岡県浜松市北区細江町気賀)の中村氏で、残る1人は老ヶ谷(おいがや。静岡県浜松市北区細江町気賀老ヶ谷)の中村氏です。

中村家墓所の墓誌「初代中村与太夫重益は遠江敷知郡宇布見村中村源左衛門次男として生まれ(天正二年二月八日幼名義丸)浜松城出仕 家康に仕う その後三十五才病身にて気賀に引籠り代 官を仰付る」

 

(1)宇布見の中村氏

宇布見の中村氏の本貫地は、大和国広瀬郡百済荘中村郷で、中村初代正範は、源範頼(源義経の異母兄。蒲御厨(静岡県浜松市中区蒲町)で生まれ育ったので、「蒲冠者」「蒲殿」と呼ばれた)の子だそうです。南北朝時代は南朝方の武士でした。

文明13年(1481)、中村正実は、今川上総介範忠(駿河今川氏の祖)に招かれて遠江国豊田郡大橋郷に移住し、その後、敷知郡和田(協和町)、平松(平松町)、宇布見(雄踏町宇布見)、山崎(雄踏町山崎)、大白須(白洲町)郷の5郷を与えられ、文明15年(1483)、宇布見に屋敷を構えたそうです。

中村家住宅(雄踏町宇布見)

「正実蔵人新左衛門 文明十三年、遠江国豊田郡大橋郷住居。然、奉仕今川上総介源範忠朝臣、武功依之賜同州敷智郡和田、平松、宇布見、山崎、大白須等五ヶ荘。仍則移宇布見郷、構屋敷。永正九年壬申歳十二月九日没。」(『中村家系図』)

中村氏が今川氏により遠江国に招かれたのは、旧・大和川の水運に携わっていたためで、その技術と知識を活かして、浜名湖の今川氏の軍船の支配役を任されました。

永禄11年(1568)、徳川家康の遠江侵攻を支援して以降、徳川氏に仕えました。(徳川家康の遠江侵攻の様子を『中村家由緒書』に「瀬戸芳久親類の事、急で申合置候」(瀬戸方久は親戚なので、徳川家康軍が、瀬戸村の渡河点で都田川を渡ることを、急いで伝えた)としてます。)

天正2年(1574)、築山殿に折檻されていたお万の方を、当日の夜勤であった本多作左衛門重次が見つけて、「浜松城下では見つかるから」と中村屋敷に匿い、徳川家康の次男・於義丸(後の結城秀康)は、中村屋敷で誕生しました。(胞衣を埋めた胞衣塚が現存しています。)

天正18年(1590)、徳川家康の関東移封に伴う関東移住を宗主・中村正吉が断ったため、武士から庄屋に格下げされました。

(2)気賀の中村氏(与太夫家)

気賀の中村氏は、宇布見の中村氏の分家です。

中村与太夫重益(宇布見の中村正吉の弟)を本多作左衛門重次が気賀に呼んだのが気賀の中村家の始りで、代官を務めていました。

江戸時代、領主が気賀近藤氏になると、中村氏は、本陣を営むようになりました。

気賀宿本陣中村家跡

気賀宿本陣中村家跡
気賀は、天正15年(1587)本多作左衛門によって宿と定められ、東海道本坂通(姫街道)でもっとも重要な宿場となり、本陣は中村家がつとめました。
本陣とは、江戸時代の宿場に置かれた、大名、公家、幕府役人など貴人のための宿泊施設です。
宇布見村(現在の雄踏町)の中村家は、徳川家康の次男秀康が生まれた家として知られています。中村家の次男与太夫は、本田作左衛門の世話で気賀の代官となり、これが後に気賀宿本陣中村家となりました。中村家は代々与太夫を名のり本陣として栄えました。
平成6年10月1日
細江町教育委員会

(3)老ヶ谷の中村氏

老ヶ谷の中村氏(中村平三郎)は、新田友作(実は名倉伊茂)を慕って、気賀に移住した家臣(中村党の党主)です。

中村本家の墓(左)と新田喜斎の墓(右)

「長臣・石田、武田之党、随従而引佐郡気賀庄松崎に居を定む。後、家臣・丸井、蒲生、中村党、追々来仕故ありて、松崎を廃、呉石村に移住(土人其所を御所平と唱)」(『石田家家譜』)

『中村家由緒書』によれば、新田友作(出家して喜斎)が死んだ時、息子はいませんでした(異説あり)が、妾腹の娘が3人いて、「血統を絶やさぬように」と、その1人と結婚して老ヶ谷古屋敷に住んだのが中村氏の祖・中村平三郎なのだそうです。

・天英妙晋大姉:中村平三郎と結婚

・菊溪浄芳大姉:詳細不明

・裕岸禅尼:父・新田喜斎の菩提を弔った。

中村一族が新田喜斎を祀る若宮八幡宮(美咲台から遷座)

「後陽成天皇御宇慶長十一年八月十五日於呉石郷塔之下新田喜斎遂最後其一族某改氏名称中村平三郎住老ヶ谷古屋敷而送餘命寛永六年正月十九日死去法名謂邑邦院即翁常心居士是即中村家一統之祖先也」(墓碑銘)

さて、永禄9年編が始まったわけですが、井伊直虎が城主だったのは、永禄9・10・11の残り3年間ですので、1年間を4話で描くとして、12話、第32話までとなります。残り18話では何が描かれるの???

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

主要キャラの史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

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