「次郎法師置文」(龍潭寺)

井伊家を訪ねて

「死中に活」を求めた井伊直虎 おんな大名・寿桂尼は直虎の「お仲間(by氏真)」だったか?

更新日:

井伊直虎は、就任早々、2つの「お下知」(主家である今川家の命令)に背きました。

その2つの命令とは、以下の通りです。

①小野政次を虎松(後の井伊直政)の後見人にせよ。
……次郎法師は、還俗しないで、領主としての「井伊直虎」という名前を用意し、地頭(領主、城主)となり、虎松の後見人となった。

②瀬戸・祝田村の農民から徳政令の要請があったので発布せよ。
……瀬戸・祝田村は、領主・瀬戸方久が龍潭寺に寄進してしまったので、徳政令を出したいが、寺領には手を出せないと主張した。

「龍潭寺領に徳政令を出せない」理由は、ドラマでは『今川仮名目録』としていますが、実際は永禄8年(1565)9月15日に出された「次郎法師置文」(龍潭寺では「黒印状」と呼ぶ・上掲の写真)が根拠になります。
この黒印状は、次郎法師が南渓和尚宛に発行した文書で、「龍潭寺寄進状之事」というタイトルで、寺領について8項目に分けて記載し、添え書きをし、最後に署名「次郎法師」と黒印があります。

添え書きには、次のように書かれています。
「右条々、信濃守為菩提所建立之上者、不可棟別諸役之沙汰、并、天下一同の徳政、并、私徳政、一切不可有許容候。守此旨、永可被専子孫繁栄之懇祈、於後孫、不可有別条也。仍而如件。」
【現代語訳】以上の八ヶ条、龍潭寺は、井伊信濃守直盛の菩提寺として建立された以上は、棟別の諸役課税があってはならない。並びに、「天下一同徳政」(室町幕府による全国一斉の徳政令)、「私徳政」(実力行使(土一揆)による借用証文の破棄、質物奪取)は、一切、受け入れない。この旨を守り、永く子孫繁栄の祈りに専念すること。将来においても別条(特記事項)はない。以上の通り。

※「以上を守れば子孫は繁栄する」という添え書きがあるため、学者はこの文書を「置文」と呼んでいます。
※ドラマの設定では、徳政令の要求は、永禄8年4月ですので、まだこの黒印状が出されていないので、『今川仮名目録』を根拠としたのでしょう。

この「次郎法師置文」については、
①黒印があるから公式文書である。しかし、龍潭寺宛ではなく、南渓和尚という個人に出している。有り得ない。偽書である。
②漢字が多く、筆圧も高い。男性が書いた文書で、当時の女性の軽やかな仮名混じりの文書とは大きく異る。次郎法師は男性である。
とも言われています。

当時は、井伊直盛が龍潭寺に出した「龍潭寺寄進状」がまだ現存しており、新しく領主になった次郎法師は、「『龍潭寺寄進状』を確認。ここに書いてある通り保証する。以上」という代替わりの安堵状を出したかったのでしょう。
しかし、「井伊直盛が寄進状の『龍潭寺領はAさんの屋敷まで』のAさんの屋敷が無くなって、今は畑になっている」等、状況が変わっていたので、「井伊直盛龍潭寺寄進状について」というタイトルで、「井伊直盛龍潭寺寄進状」の内容を逐一チェックして、現状に合わせて書き直したと思われます。
個人的には、①当時は現存していた「井伊直盛龍潭寺寄進状」が「寄進状」であり、「次郎法師置文」は、南渓和尚に出した「現状はこうであった」という「井伊直盛龍潭寺寄進状について」というタイトルの「報告書」なのかな、②「覚書」ではなく、井伊家による公式調査の結果なので、署名・黒印があるのかな、と思っています。

漢字が多いのは、元の文章(「井伊直盛龍潭寺寄進状」)の写しに近いからで、筆圧が高いのは男性の右筆が書いたからだと思います。

※ドラマでは、井伊直虎が、瀬戸方久に就任祝いにもらった「書道セット」(中国では、紙・筆・墨・硯で「文房四宝」という)を使って、自ら文書を書いていますが、実際は、「右筆(ゆうひつ、祐筆)」という書記官が書き、領主が書くのは花押だけ(もしくは署名と花押だけ)でした。

私が「次郎法師置文」が偽書であると指摘するのであれば、宛先や筆跡ではなく、「大藤寺について書いてある」ということです。

2017年7月4日から東京で開催される特別展「戦国!井伊直虎から直政へ」での展示品を整理中に、大藤寺は「天正3年(1575)、龍潭寺にあった南渓作【世継ぎ観音像】をご本尊として創建された寺」であると書かれた史料が出てきてしまったのです。

実にまずい。これでは、大藤寺が「次郎法師置文」が出された永禄8年(1565)9月15日には存在しないことになってしまいます。

※以前から「大藤寺は、天正3年に井伊直盛が創建」という伝承がありましたが、天正3年には井伊直盛は他界していましたので、誰もが無視しておりました。
しかし今回、「天正3年に創建」という史料が出てきてしまいました。
私は、今回の史料は天正3年に書かれたものではなく、後世、「天正3年に創建」という伝承を書いたものであり、「天文3年(1535)創建の誤伝」(井伊直虎誕生祝いに井伊直盛が創建?)、もしくは、「天正3年(1575)修復・再建」(徳川家康から300石いただいた記念に井伊直政が修復・再建?)だと考えています。

永禄7年(1564)4月6日「井伊直政年貢割付」(蜂前神社文書)

永禄7年(1564)4月6日に発行された「井伊直政年貢割付」(蜂前神社文書)を、学者は「井伊直政では幼すぎる。当時の地頭は井伊直虎である」として、「井伊直虎年貢割付」と呼称を変えました。
(この学者の論理を使って言わせてもらえば、永禄7年4月6日には、地頭・中野直由(永禄7年9月15日没)がまだ生きていましたから、「中野直由年貢割付」ではないでしょうか。)

私は、この文書で、学者が「太藤馬」と読んでいるのは「太藤寺」(大藤寺)で(「但馬」の「馬」とは別の字に見えます)、永禄7年4月6日には大藤寺があったと考えています。(学者の言うように「太藤馬」だとして、「太藤馬」って何? 人 名?)

前置きが長くなりました。
「二度までも沙汰に背くとは、これは『謀反の意あり』と疑われても仕方あるまい。直虎を駿府に申開きに来させよ」(by 寿桂尼

さて、井伊直虎は駿府で誅殺されてしまうのか?

 

第15話 「おんな城主 対 おんな大名」 あらすじ 

今川から裁判(詮議)への出頭命令状が届いた。

罪状は、以下の通り。
「今川家の命令である『小野政次を虎松の後見人とせよ』を拒否して井伊直虎が後見人になった」
「農民が今川家に直訴してきた徳政令を出さない」

二度ある事は三度ある、と言う。
井伊直満井伊直親、そして、今回は井伊直虎が誅殺される番?

小野政次は、「駿府へ行かずとも済む手立ては唯ひとつ。私を、虎松様の後見になさることにございます」(「私を」ではなく、「某を」では?)と言うが、その言葉を聞いた井伊直虎は「ならば、申開きに参るしかなかろうの」と返し、重臣一同、「生より死を選ぶのか!?」と唖然とした。

「あの女(あま)~、あれだけ言ったのに」(by 中野直之)
「あの女子(おなご)」と言わなかったのは、「尼」との掛詞なのか分からないが、中野直之は駿府へは行かず、井伊谷に残る。

※井伊直虎が誅殺されたら、「宗主:虎松 後見人:小野政次」となるでしょうけど、井伊直虎が有罪となれば、小野政次も「井伊直虎の監督ができなかった」と切腹を命じられるかもしれませんし、殉死するかもしれません。
それに南渓和尚が生きていますから、「宗主は井伊直之」と言いそうです。
中野家は井伊家庶子家で、中野に住んだことから、「井伊」から「中野」に変えました。宗家と同じ「直」を通字とし、井伊信濃守直盛の遺言で、領主に指名された中野越後守直由は、「中野信濃守直由」と直盛と同じ受領名に変えています。
中野直之は、その領主・中野直由の子ですから、苗字を「井伊」に戻して、領主になってもおかしくありません。
つまり残って正解かと。(中野直之の母は、新野親矩の妹(井伊直虎の母とは姉妹)とされていますが、どうも井伊直親の妹のようです。)

井伊直虎(騎乗)は、ニワトリのファンファーレとスズメの囀りに送られながら、小野政次(騎乗)、龍潭寺の4人の僧(昊天宗建は槍を折られたが、長刀ではなかった。新調したのか、借りたのか、槍を手にしていた)、2匹の馬を曳く従者2人と共に、出発した。
この時刻の出発であれば、宿泊は掛川宿の手前、原川宿あたりになりそうである。
私なら、瀬戸方久に頼んで船を用意してもらうけどな。そうすれば、駿府へは無事に着けると思う。海の上では、小野政次も今川と連絡が取れないので、見張り役の傑山宗俊がトイレに付いて行かなくても良い。

今川も馬鹿ではない。
誅殺を繰り返したら、領内の国衆が怖がって、どんどん今川から離れていくことくらいは想像できる。
今回は、事故死に見せかけて殺した方がいい。そこで、斧で木を伐り倒し、その下敷きにしようとした。

しかし、失敗したので、斧を投げた。
山賊の仕業と見せかけるためであったが、これも失敗したので、結局は刀を抜いて打って出た。

井伊直親の時のように、弓や槍を使えば、井伊直虎の暗殺は成功したであろうが、刀では、駆けつけた中野直之の前に瞬殺であった。中野直之の姿は、三蔵法師を守る孫悟空のようで、カッコよかった。
この刺客が井伊直親を殺したのと同じメンバーであるならば、中野直之は主君の仇を討ったことになる。アッパレ、アッパレ、アッパレ(見事であったので、3回言ったった)。

一方、龍潭寺の僧も戦ったが、狭くて、槍を使いこなせなかったようだ。井伊直虎が逃げずに、傑山の背後に隠れたら、龍潭寺の僧は、全員死んでいたかもしれない。

「自分の死は覚悟しているが、自分の決断で、周囲の人を死なせることになる」

そう感じた優しい直虎は、小野政次の後見を許可すると、井伊直虎は、龍潭寺の僧と井伊谷へ帰った。
亀之丞(井伊直親)の信濃落ちの時、着物を取り替えて亀之丞を逃したことが思い起こされる。そう、今回も色白で、衣服によっては女に見える中野直之に変装させ、自分は中野直之として、単独、駿府へ馬を駆ったのである。

「これならば、見つかっても、自分一人が殺されるだけだ」
今川は、中野直之のことは小野政次から連絡を受けずにいたらしく、中野直之に化けた井伊直虎は、駿府入りを成功させた。

さて、ここからが、今回のメインコンテンツ「おんな城主 対 おんな大名」となる。

裁判長が今川氏真であれば、井伊直虎は、申し開き虚しく、判決は「有罪(誅殺)」で、今川氏真は、火あぶりにしようか、串刺しにしようかと考えて楽しんだであろう。
幸いなことに、ちゃんと話が出来る寿桂尼が相手。

「殿はご不在故、私が会おう」

氏真は、実際のところ不在ではなく、蹴鞠を楽しんでいたであろう(笑)。
訪問者が井伊直虎であるならば会わないわけにはいかないが、中野直之では、会うのは面倒くさいと思うであろうことを寿桂尼は分かっていた。
「井伊の中野が書状を持って来た」と聞いて、寿桂尼は「『後見を小野政次に任せる』と書かれた公式文書を持って来たのか」と思って会って受け取ろうとしたのであろう。

しかし、会ってみると、そこにいたのは、中野直之に変装した井伊直虎であった。

寿桂尼「今川からの命である徳政を行わなかったと…」
井伊直虎「『行わなかった』のではなく、『出来なかった』のございます」

その根拠を井伊直虎は『今川仮名目録』の第22条・・・(『今川仮名目録追加』第20条)「不入之地の事、改るに不及」とするが、案の定、寿桂尼に言い返されてしまう。

「よう小理屈をひねり出したようじゃが、生憎、この件は義元公の『追加』の掟によって改められておる。『守護使不入とありとて、可背御下知哉』と。井伊が忠実に掟に従うならば、下知には背かぬのが道理。速やかに徳政を行われよ」

『今川仮名目録』の第22条・・・(『今川仮名目録追加』第20条)
「不入之地の事、改るに不及、但其領主令無沙汰成敗に不能、職より聞立るにおゐてハ、其一とをりハ、成敗をなすへき也、先年、此定を置と云共、猶領主無沙汰ある間、重而載之歟」

「不入之地之事、代々判形を載し、各露顕之在所の事ハ沙汰に不及、新儀之不入、自今以後停止之、惣別不入之事ハ、時に至て申付諸役免許、又悪党に付ての儀也、諸役之判形申かすめ、棟別段銭さたせさるハ私曲也、棟別たんせん等の事、前々より子細有て、相定所の役也、雖然載判形、別而以忠節扶助するにをいてハ、是非に不及也、不入とあるとて、分国中守護使不入なと申事、甚曲事也、当職の綺、其外内々の役等こそ、不入之判形出す上ハ、免許する所なれ、他国のことく、国の制法にかゝらす、うへなしの申事、不及沙汰曲事也、自旧規、守護使不入と云事ハ、将軍家天下一同御下知を以、諸国守護職被仰付時之事也、守護使不入とありとて、可背御下知哉、只今ハをしなへて、自分の以力量、国の法度を申付、静謐(せいひつ)する事なれば、しゆこ(守護)の手、入間敷事、かつてあるへからす、兎角之儀あるにをいてハ、かたく可申付也」(『今川仮名目録追加』第20条)

──勝負あり!

もはや井伊直虎の負けと思われたが、そこは元臨済宗の僧・次郎法師である。見事に切り替えしてみせた。
臨済宗では、毎朝、師から公案を授けられ、1日中考えて、夕方、考えた答えを師に示すという修行をしているので、禅問答(ディベート)は得意なのである。

私なら、
「( ´,_ゝ`) プッ 語るに落ちたなBBA(=^.^=) ニヤニヤ」
と言うが、そこは直虎、礼を尽くし、ドヤ顔にならず、冷静に言うのである。

「私に『徳政を行え』と…。それは、私こそ、それにふさわしき者、『後見』とお認めになっておられるという事になりますが…左様に受け止めて宜しいのでございましょうか」

逆転勝訴だ。
が、ここで井伊直虎を虎松の後見人としたくない目付・小野政次が、奥の手を差し出した。
虎松の実母が、井伊直虎の後見を拒否したとする書状である。

寿桂尼「それは困った話よのぉ。生母が望まぬ後見なぞ、火種になるのは目に見えておる」

再びピンチである。

と、タイミングよく別の書状が届けられるのであった。
広い部屋が「狭い」と感じさせられるほど長い書状で、そこには、
「瀬戸村・祝田村一同、井伊直虎様の後見を伏して願い奉りまする」
とあった。
さらに、7000人の僧侶が執り行った今川義元(天澤寺殿)の葬儀で、安骨大導師の大役を努めた南渓和尚の添え書きと、署名・花押まで著されている。

「曾而天澤寺殿曰以己力量治國」
(曾て、義元公は、「己の力量を以って国を治む」と曰われり。比ぶべくもない小さき力量なれど、直虎にもそれをお許し願いたく存じ奉り候。なぜならば、それが井伊の民が望むところである故、その旨、お伝え申し上げたく、お目汚しとは承知の上、差し出したる次第にて候。)

駄々を捏ねてる一人の女性の書状と村人全員の書状とでは重みが違う。
村人、やるじゃん! 私なら千羽鶴を折るとか、日の丸に署名するくらいしか出来ない。それにしても、南渓和尚、『今川仮名目録追加』第20条の事を知ってて、引用してるじゃん。

寿桂尼は「膝立て座り」に変えて問うた。
「直虎、もし、そなたに井伊を任せれば、そなたは如何にして民を治める?」

ここで井伊直虎が男であったなら、「与力(寄騎)としてお借りしております鈴木(柿本城主)・近藤(宇利城主)・菅沼(都田城主)と共に三河へ攻め入り、徳川家康を討ち、三河を今川家にお戻し致します」と言うであろうが、女なので、女都知事の「都民ファースト」同様、「潤すことで」と答えた。

「国というのは、まず民が潤わねばなりませぬ。民が潤わねば、国が潤うことは無いと存じます。民が潤えば、井伊が潤います。井伊が潤えば、それは今川の潤いとなっていくと、私は考えております」

寿桂尼を驚かせたのは、徳政令の発布を求めた農民を押さえつけるのではなく、和解し、さらには味方にしてしまうという力量、政治的センス、人としての魅力であった。

判決が言い渡された。
「井伊直虎、そなたに後見を許す。向後は、『己の力量を以って』井伊を潤すが良い。ただし、次は無い」

整理しよう。
井伊直虎の罪状は、
①今川家の命令である『小野政次を虎松の後見人とせよ』を拒否して井伊直虎が後見人になった。
②農民が今川家に直訴してきた徳政令を出さない。
であった。

①については、寿桂尼が後見を許して解消。
②については、直訴した農民が、井伊直虎の助命嘆願書を出したということは、徳政令の直訴を取り消したということである。

この寿桂尼が下した判決を聞いた小野政次は、「大方様は、あの女子(おなご)が如何にして井伊を治めるか見てみたくなったのかも知れませぬ」と敗因を分析しているが、これは寿桂尼の気持ちというよりも、小野政次の気持ちのようにも思われる。

さて、次回からは「民を潤す」話が始まる。率先垂範・師弟同行型リーダーのお手並み拝見!

(つづく)

今回の言葉 「死中求生、可坐窮乎。」

「ただし、次は無い。もう二度と生きて申し開きが出来ると思わぬ事じゃ」(by 寿桂尼)

今回は、「九死に一生を得る」と言うレベルではなく、「万死に一生を得る」状況であった。井伊直虎が「駿府に死を覚悟で申し開きに行く」と「死中に活」を求めた結果の「生」であろう。

『後漢書』「公孫述伝」に次のようにある。
九月、呉漢又破斬其大司徒謝豐、執金吾袁吉、漢兵遂守成都。述謂
延岑曰「事當奈何」
岑曰「男兒當死中求生、可坐窮乎。財物易聚耳、不宜有愛」
述乃悉散金帛、募敢死士五千餘人、以配岑於市橋、偽建旗幟、鳴鼓挑戰、而潛遣奇兵出呉漢軍後、襲擊破漢。漢墮水、緣馬尾得出。

【意訳】 建武12年(36年)9月、大司徒の謝豐、執金吾の袁吉が斬られ、呉漢が蜀の首都である成都に迫った。公孫述から対策を相談された延岑は、「男児当に死中に生を求め、坐して窮すべけんや。財物、聚(あつ)め易きのみ、有愛宜しからず」( 男たるもの、死中に活を求めるべきであり、座って困っているようではダメだ(行動せよ)。物や金はは簡単に集められるから、有愛(物や金への執着)は拭い去れ。)と一喝した。公孫述は、私財を惜しみなく使い、決死隊5000人余りを集め、蜀討伐軍の総大将を務める大司馬・呉漢を市橋で奇襲して破った。この時、呉漢は川に落ちてしてしまったが、馬の尻尾につかまって脱出した。

「死中に活を求める」の本来の意味は、「死中(死を待つ以外にない絶望的な状況)にあって、「活」(生。生き延びる方策)を探すこと」であるが、転じて、「窮地の打開策として、あえて危険な道を選ぶこと」という意味でも使う。今回の井伊直虎のように「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」なのである。

※川での水死の原因は、「墮水」(水に落ちること)後にもがくことにある。川に落ちたら、馬の尻尾ならともかく、藁には掴まらず、暴れず、「捨て身」(じっとして、川の流れに身を任せること)になれば、そのうち浅瀬に達し、立つことができ、岸へ歩いて行けるのである。今回の井伊直虎も、「捨て身」で立ち向かったので、話し合ってる内に「徳政を行われよ」という寿桂尼の言葉を引き出せたのである。

なお、仏教用語の「有愛(うあい)」は、「生に対する妄執」「死にたくないという欲望」を言う。

※『晋書』「呂光載記」にも、「死中求生、正在今日也」(死中に生を求むるは、正に今日にあり。)とある。

 

キーワード:寿桂尼

寿桂尼は公家の娘です。 藤原北家、勧修寺流の中御門家の姫です。今川氏真が蹴鞠や和歌が好きなのは、その血の半分が公家の血だからでしょうか。

寿桂尼の菩提寺である龍雲寺(静岡県静岡市)

夫・今川氏親の晩年は病床(中風)にあり、夫婦で協力して『今川仮名目録』を完成させたといわれています。家督を継いだ長男・今川氏輝は若く、公式文書に花押が書けず、印を捺す状況であったので、2年間、「女戦国大名」(命名は今川氏研究者の久保田昌希氏)と呼ばれる立場にいたようです。(現在確認されている彼女の発給文書は25通。このうち13通が氏輝の代に出されています。)

なぜ、彼女は「女戦国大名」になったのでしょう?

寿桂尼を描いた永井路子『戦国の姫』には、次のようにあります。

──そうするより、しかたがないじゃないの。

理由はこの一点につきる。そして、女はいつも、こんなふうな肚の据えかたをして、無意識に歴史の流れを渡るのだ。大げさな理論をふりかざすのは男のやりかただ。(中略)女は理屈から組み立てることはしない。(中略)そして、それらの事が行われた後から理屈が大急ぎで追いかけてきて、格好をつけてくれるのである。

寿桂尼は、夫・今川9代氏親のみならず、10代氏輝(長男)、11代義元(三男(氏親の側室が2人産んでいるので、氏親としては五男))、12代氏真(孫)の今川四代に渡って政務を補佐した「今川家のゴッドマザー」です。

この公家の娘と、政治との関わりは、夫が病気で寝たきりになったことであり、この時、寿桂尼には、夫という見本となる政治家がいましたが、井伊直虎には見本となる井伊家の人間はいませんでした。

「おばば様には、お仲間のように思われたかもしれんの」(by 今川氏真)

女教主・井伊直虎を寿桂尼と比較して、
・結婚して子を産んだ寿桂尼は、母性に依る支配を行い、戦場には立たなかった。
・結婚して子を産んだことのない井伊直虎は、男勝りで、龍潭寺で武術を習い、戦いとなれば太刀を佩いて戦場に立つ勇ましい女性だった。
と、「仲間・同類」というよりも、「異質な為政者」して描かれることが多いです。

しかし、このドラマでは、あくまでも「おんな城主」、「女」なのです。

領民は、「直虎様は女子(おなご)だで。お守りできんじゃ、男じゃねえらぁ」と言って中野直之を目覚めさせ、本人はといえば、蛇を見て腰を抜かし、刺客に襲われてしゃがみ込んでしまいます。(弱ければ弱いほど、「守ってあげたい」という気持ちが高まります。)

※日本に生息する蛇の種類は36種であるが、本州には8種(アオダイショウ、シマヘビ、ジムグリ、ヤマカガシ、ヒバカリ、シロマダラ、マムシ、タカチホヘビ。苞蛇(ツチノコ)を入れれば9種類)しかいない。36種のうち、毒蛇はマムシ、ヤマカガシ、ハブの3種で、本州に生息するのはマムシとヤマカガシである。今回登場したのは、アオダイショウである。無毒で、餌はネズミ。ネズミを追って屋内に侵入することもある昼行性の蛇であるので、夜に見る事はあるが、珍しい。(脚本家の設定はマムシだったらしいが、危険なためアオダイショウに変更されたらしい。)昊天はアオダイショウが無毒であることを知っていたし、僧侶は殺生禁止(とはいえ、刺客とは戦う)なので、殺さず、優しく捕まえた。井伊直虎も、竜宮小僧時代には、田んぼで蛇を見ていたはずで、蛇を怖がらないとは思うが、夜に寝所で会えば怖いよな。

 

キーワード:祐椿尼

井伊直虎の実母(新野親矩の妹)は、夫・井伊直盛が桶狭間で殉死すると、出家して尼となり、「祐椿(ゆうちん)」と名乗り、龍潭寺の塔頭(たっちゅう。寺院内寺院)の「松岳院」に住みました。

松岳院跡(龍潭寺)

「松岳院跡地

松岳院跡地とは、井伊家二十二代直盛公の御内室、松岳院様が住まわれた塔頭(寺内寺院)があった場所です。江戸時代中期に彦根の絵師が描いた龍潭寺境内図に、松岳院の建物が記されています。松岳院様は、おんな城主井伊直虎の母君です。

永禄三年(一五六〇)五月十九日、桶狭間に出陣した直盛は織田信長の奇襲を受け、今川義元とともに討死しました。直虎の母は髪をおろし仏門に入り、松岳院という法号を頂き松岳院様とよばれ、龍潭寺境内のこの地に庵を建て、亡き直盛の追善供養を勤められました。

永禄十一年(一五六八)十一月、徳政令を受入れた直虎は井伊谷城を出て松岳院へ入りました。一ヶ月後の十二月、徳川家康は井伊領に侵攻して井伊谷城を接収し、引馬城へ入り遠州進出第一歩を印しました。

天正三年(一五七五)、井伊直政公は浜松城で家康に仕えました。天正六年(一五七八)一月十五日、直虎の母松岳院逝去。法名松岳院殿寿窓祐椿大姉と申し龍潭寺に葬られました。

天正十年(一五八二)六月、本能寺の変。家康主従決死の伊賀越え、直政は家康を守り無事岡崎に帰還しました。直政のこうした活躍を見届け、直虎は同年八月二十六日、大叔父である龍潭寺二世南渓和尚に見守られ逝去しました。」(松岳院案内板)

 

キーワード:ひよと虎松

虎松と実母・ひよ(ドラマでは「しの」)について『井伊家伝記』では、「虎松を次郎法師(虎松の後見人)、祐椿尼(次郎法師の母)、ひよ(虎松の実母)の3人で守ったが、3人とも女性なので、政治は小野政次のやりたい放題であった」とあり、ドラマもこの説を採用し、「虎松と実母・ひよは新野屋敷で暮らしていた」としています。

他説では、新野親矩の死後、今川氏真から虎松殺害命令が出たので、虎松を鳳来寺に逃し、ひよは松岳院で過ごしたとしています。

松岳院の横には、ひよが虎松の無事を祈ったという「子育て地蔵」、井伊家安泰を願って植えたというナギの巨木があります。

ナギの巨木と子育て観音

「子育て地蔵 -虎松の無事成長祈願仏-
戦国末期徳川軍団筆頭となり、彦根十八万石城主に出世した井伊直政は、幼名を虎松といいました。虎松は幼少の頃、井伊谷で実に苦難の道をたどります。
永禄五年(一五六二)虎松二歳の時、父直親は今川氏真の手により、掛川城下で殺されます。虎松も殺す命令が出ますが、家老新野左馬助の助命嘆願で救われました。この事件以後、井伊氏は存亡の危機を迎えます。
永禄六年二十代直平公出陣の途中急死、翌年井伊城代家老中野信濃守が引馬城攻めで戦死します。そしてついに永禄十一年(一五六八)秋、虎松八歳の時、井伊領を家老小野但馬が横領します。
この時期虎松母子は、祖母・叔母に保護され龍潭寺内松岳院に身を寄せていました。直政の母はお地蔵さまを造り、密かに境内に祀り、その傍らに神木「なぎ」を植え、我が子の安泰を日々念じていました。
永禄十一年十二月徳川家康が侵攻、井伊領を占拠します。危機を察知、南渓和尚は虎松を鳳来寺に預けます。無事にたくましく成長した虎松は天正三年(一五七五)十五歳で家康に出仕、見事に井伊家を再興したのです。」(子育て地蔵案内板)

 

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

 

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