大樹寺(愛知県岡崎市)

井伊家を訪ねて

小野政次が窮地を脱する一方で、家康の妻・瀬名は絶対絶命に……おんな城主直虎ロケ地巡り&レビュー

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今回は、タイトル「走れ竜宮小僧」から想像できるように、次郎法師(井伊直虎)が、小野政次や瀬名姫の助命に奔走する回です。次郎法師と小野政次や瀬名姫(築山殿)との友情物語が、太宰治『走れメロス』のメロスとセリヌンティウスの友情物語を思い出させてくれます。

戦国時代を描いた多くのドラマは、徳川家康などの戦国大名を主人公とする上から目線のドラマで、そこには庶民の姿はあまり出てきません。このドラマ「おんな城主 直虎」は、国衆や領民の動きから上級権 力者(戦国大名)の政策・戦略を知るという下から目線のドラマです。

「井伊谷を治める国衆・井伊氏と領民が見た戦国時代」と、上へと広がるドラマですが、ややもすると「大河ドラマ」ではなく、「家族ドラマ」(井伊家のドラマ)だと思われがちです。
井伊氏やその領民の視点で、井伊家の主家・今川氏や、将来の主家である徳川氏について語られているパートも見逃せないのです。

第10話 「走れ竜宮小僧」 あらすじ

小野政次「奥山殿を…奥山殿を、刺してしまった」
アジール(不可侵の聖域)・龍潭寺に逃げ込んだ小野政次は、次郎法師にそう告げた。

井伊谷城では、重臣たちが集まって、小野政次の扱いについて協議。「桶狭間の戦い」前は、宗主・井伊直盛を中心に多くの重臣が並んだが、今日の会議では、中央に井伊直盛の位牌が置かれ、参加者は、①井伊直親、②中野直由(地頭、井伊直親の後見人)、③新野左馬助(今川氏から派遣された目付家老)、④奥山孫一郎(庶子家代表)のたった4人である。
──「獅子身中の虫」である小野を討つべし。
「小野を殺したい」とまでは言わなくても、「小野を排除したい」と思う重臣は多い。成敗したら、小野政次は今川氏が目付に選んだ人物であるので、「今川氏に対する謀反」と思われかねない。
しかし、今回は、「親族の仇討ち」という大義名分がある。小野を殺すチャンスである。

その時、小野政次の名代が登場。
殺された奥山朝利の娘であり、小野政次の弟・小野玄蕃朝直の妻でもあるなつであった。そして、次のように語った。
「亡き殿様は、玄蕃様と私に、井伊の者たちを繋ぐ架け橋になって欲しいとおっしゃっておられました。私は、そのお役目を、玄蕃様亡きあとも継いでいきたい・・・私はそう思うております」

政略結婚の意味をよく理解した素晴らしい嫁である。
──小野政次、正当防衛により無罪
小野亥之助の将来も考慮され、「小野政次による奥山朝利殺害事件」は決着した。

納得がいかないのは奥山ひよ(ドラマでは「しの」)である。「殺そうとした父が悪いと分かっているが、それでも父は、父」だと言う。これは父を今川氏に誅殺された夫・井伊直親には良く分かった。井伊直親の父は、北条氏と手を結んだ謀反人ではあるが、父は父なのである。こうして、同じ心の傷を持つことになった二人の絆は、より強まったのである。

※奥山朝利の死因には、前回記したように、小野政次殺害説と今川氏真殺害説がある。今川氏真が攻めてきたのは、松平元康の自立が判明して以後の事だと思われるので、ドラマでは小野政次殺害説を採用している。この場合、
A.小野政次をなぜ殺さなかったのか、追放しなかったのか
B.小野政次はなぜ奥山朝利を殺したのか
という問題が生じる。
普通、Aについては、「小野政次は今川氏に指名された目付なので、排除できなかった(排除したら、今川家を裏切ったとみなされ、今川軍に攻められる)」、Bについては「不明」とされる。さらに、小野玄蕃朝直の子・亥之助は、虎松(後の井伊直政)と共に徳川家康に出仕し、それぞれ小野万福、井伊万千代と名付けられ、小野万福は井伊万千代の同心衆に加えられ、子孫は、与板井伊家の世襲家老家になったという史実から、

C.なぜ小野家は絶えるどころか与板井伊家の家老職に就いているのか
という問題もある。これらA・B・Cの3つの問題点を、ドラマでは、「井伊家と小野家が仲良くすることは、井伊直盛の要望であるから尊重しましょう」と上手く処理している。

さて、桶狭間での大敗北、奥山朝利の死と不幸が続いた井伊家に明るい話題が飛び込んだ。井伊直盛の月命日の2月19日、井伊直親とひよとの間に待望の赤ちゃんが生まれたのである。
──跡継ぎとなる男の子であった。
井伊家のゴッドファーザー・井伊直平が「虎松(後の井伊直政)」と名付けた。

井伊初代共保公出生の井戸にも水が湧いてきた。
龍宮小僧の活躍もあって、「日々是好日」の井伊谷。しかし、駿府では・・・。
南渓和尚「直親。今川に、佐名らの命乞いに参らせてもらえぬか。そのうち松平は、瀬名らを引き取るために、今川と手打ちをするものと見ておったが、ふふん、どうやら当てが外れたようじゃわい」

南渓和尚は、佐名とは特別な関係(第20話で暴露)にあるので、居ても立ってもいられない。

松平元康は、まずは混乱する西三河を平定し、次に東三河を平定して、三河国を統一するつもりでいた。今川氏真の行動力の無さを考慮し、三河国を統一してから、妻子を返してもらう交渉を始める予定だったという。
今川氏真は、松平氏の西三河での戦いは、尾張国の織田氏が今川氏の本拠地の駿府へ軍隊を向かわせるのを阻止する戦いをしていると思い込んでいた。しかし、松平氏が東三河の牛久保城(今川方の牧野氏の居城)を攻めると、松平元康の真意に気づいた。
──松平の人質を皆殺しにせよ!(by 今川氏真)
今川氏真は行動に出た。龍拈寺で人質を殺すと、東三河へ出陣したのである。この行動力に、松平元康は驚いた。
──瀬名たちの命が危ない!

急げ、数正!!!
(つづく)

今回の法話 「日々是好日」(にちにちこれこうにち)

■『碧巌録』第六則
本則:「雲門垂語云。十五日已前不問汝、十五日已後道将一句来。自代云。日日是好日。」
【書き下し文】 雲門垂語して云く、「十五日已前は汝に問わず、十五日已後、一句を道(い)いもち来たれ」。自ら代わって云く、「日々これ好日」。
【大意】 唐末期の禅僧・雲門文偃は、「これまでの30日間の事は問わないが、これからの30日間をどうするか、一言で言ってみよ」と問い、(誰も答えなかったので、)自ら「毎日が良い日だ」と答えた。

■『碧巌録』:臨済宗でよく用いられる公案集『碧巌録』(へきがんろく。全10巻。1125年)は、雪竇重顕(980-1052)が禅者の言行録百選『雪竇頌古百則』を編み、圜悟克勤(1063-1135)がこれに垂示(序論的批評)、著語(部分的短評)、評唱(全体的評釈)を加えた本である。
雲門文偃(864-949)は、毎月15日に上堂して説法した。「日日是好日」は、その時の言葉だと伝えられている。

■中国禅宗の法系:始祖達磨…六祖慧能─青原行思─石頭希遷─天皇道悟─龍潭崇信─徳山宣鑑─雪峯義存─雲門文偃…

■「日日是好日」の読み方
・にちにちこれこうにち=禅語的
・にちにちこれこうじつ
・ひびこれこうにち
・ひびこれこうじつ=日常用語的
・ひびこれよきひ=読み下し文的

■解釈
日常用語「ひびこれこうじつ」の意味は、文字通り①「毎日が良い日だ」であろうが、公案「にちにちこれこうにち」については、深い意味を考えて「説破」しないといけない。とはいえ、②「毎日が良い日となるよう努めるべきだ」程度の浅い理解で十分だと思うが、さらに深く、③「あるがままを良しとして受け入れるのだ(Let it be.)」とする解釈もある。

私は②説支持で、質問しておいて自分で答えを言うってことは、「前回の説法から今日(15日)までのお前たちを見ていると、前回の説法の意味を理解せず、修行を怠っているように見える。次回の説法の時(来月の15日)には、褒められるように精進しなさい」と怒って言ってるように聞こえる。「説法」というよりは「お説教」、お灸をすえたのである。

昊天は、「良い日も、悪い日も、振り返ってみれば、どれも掛け替えのない一日である」と講釈し、次郎法師は、「今日を限り、もう二度と、斯様な事が起こらなかったと、そういう日であったと、いつか振り返りたいものです」と返した。

昊天、南渓和尚の真似をして「どうすれば、そうなるかのぉ?」
次郎法師「似てませんよ(笑)」
井伊直親「おとわの望みは何じゃ?」
次郎法師「今日のような日が日々であるように、喜びに満ちた日々が続くように、井伊を守って欲しい。それがわれの望みである」
井伊直親「では、某は左様な井伊を、おとわ様に、次郎法師様に、竜宮小僧様に、井伊の姫に、捧げましょう」
宝塚のベルばらっぽい。。。

キーワード:出産

移築された山瀬家(石岡)のコヤ(産屋)

コヤ(写真2)の説明

今回、風俗考証担当者の方にひとこと言いたいのは、引佐では、出産は、屋敷の一室ではなく、屋敷の敷地内に「コヤ(産屋)」という建物を建てて、そこで行うということです。(「石岡」は「祝田」の北の地名です。)
あと、風俗としては、井伊直親が縁側で「鳴弦の儀」という誕生儀礼をしていました。(弓の弦を、「ビヨ~ン、ビヨ~ン」と楽器のように鳴らして、魔除けとします。)

しのの枕元に置かれた両手を広げた白い着物を着た人形は「天児(あまがつ)」といいます。幼児の災難を除くための形代 (かたしろ)で、凶事を移して負わせます。その起源は古く、平 安時代以前とされています。個人的には、土偶は天児だと思っています。

キーワード:虎松

龍虎襖絵「西の虎」(龍潭寺)

井伊直平「虎松。どうじゃ、勇ましい、よい名であろう!」
中野直由「『虎は千里を往って、千里を還る』と申しますからな。頼もしき事、この上ございませぬな」
新野親矩「『虎は死んで皮を残す』とも申します。きっと後に名を残すお子となりましょう」
井伊直親「虎はとても自分の子を大切にするそうにございます。私も、虎松もまた、左様な親にあれかしと思うております」
虎は日本に生息しない生物ですから、その場の誰もが見たことはないでしょうが、知識(「虎」にまつわる諺)だけはあったようです。

・「虎は千里を往って、千里を還る」:「虎は一日で千里の道を往復することができるということ。勢いの盛んなさまや、子を思う親の気持ちの強いさまをいう。」(三省堂『大辞林』)
・「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」:「死後に名誉・功績を残すべきである、というたとえ。」(三省堂『大辞林』)
・「虎の子」:「〔虎は子供を非常にかわいがるというところから〕大切にして手元から離さないもの。秘蔵の金品。」(三省堂『大辞林』)

一部の直虎解説本に「虎のように逞しく、松のように長寿で」という願いを込めて、井伊直平が「虎松」と命名したとありますが、松平元康が、生まれた長男に自分と同じ「竹千代」と機械的に付けたのと同じですよ。江戸幕府の公式文書『寛政重修諸家譜』では、井伊直盛の幼名を「虎松」とするも、井伊直宗の幼名が書かれていませんが、『井家粗覧』には、井伊直宗の幼名も、井伊直盛の幼名も共に「虎松」あります。「虎の目一族の虎の系譜」です! 井伊直政が生まれると、皆が次期宗主と認め、歴代宗主と同じ幼 名が付けられたのです!

※龍潭寺本堂の龍虎襖絵:「東の龍」(龍図)と「西の虎」(虎図)。「虎」といえば、竹林ですよね。松と合わせるとは、和風ですね。

【余談】 マツの寿命は400年です。人間の寿命の数倍ですが、(鶴の1000年、亀の万年と比べたら)決して長くはありません。「箕輪」から徳川家康の命で、中山道と三国街道の和田辻に城を建てて移った井伊直政が、「和田」を「虎松」や「松平」の「松」を使って「松崎」と改名しようとしたのですが、龍山和尚(井伊直政が箕輪城下に創建した恵徳寺の開山)が、「マツはいずれ枯れるが、高さには限りがない」と進言したので、「松崎」と改名するのをやめ、「高崎」と改名したそうです。

キーワード:松平元康の自立

岡崎城(愛知県岡崎市)

──松平元康の自立(今川家からの離反)はいつ?

前々回(第8回)、駿府今川館では、
今川氏真「今では朝廷より『三河守』の名を頂こうと躍起になっておられる。のう、元康」
松平元康「はっ・・・はぁ」
新野親矩「確か、元康様は三河のお生まれで?」
松平元康「はっ。ですが、三河が今川に臣従してよりもう久しく、こちらにいる方が長くなってしまって・・・」
今川氏真「こう見えて元康は戦が上手くての。父上は大いに気に入っておられる」
松平元康「はっ・・・いやいや、そのような・・・勿体無きお言葉に御座いまする」
という会話が交されました。

今川義元が松平元康をどう扱おうとしていたかは分かりません。最初は「人質」扱いでしたが、松平元康を人質に差し出した松平元康の父・松平広忠が亡くなったことや、松平元康の才能を見抜いたことから、雪斎和尚に付けて学ばせて、将来的には今川氏真の片腕としたかったようにも見えます。それで、今川一族の関口氏の娘と結婚させ、今川一族(今川家臣)にしたのですが、本人は「一日でも早く三河国へ帰りたい、三河国の領主になりたい」と常に「自立」を考えていたようで、そこを鋭く、しかし、悟られぬようにとぼけた口調で新野親矩が突いたのですが、「三河のぼんやり」もしたたかで、本心(野心)をごまかしました。

松平元康が「もう三河国へは戻れない、三河国の領主にはなれない」と確信したのは、永禄3年(1560)5月8日に今川義元が三河守に就任した時だと思われます。

──おいおい、三河は儂の国だぞ。
と、この時、今川義元に対する怒りや殺意が生まれたと思います。
「桶狭間の戦い」のトンデモ説に「松平元康は、今川軍の兵糧を奪って大高城へ入れた」があります。これは、「変形兵糧攻め」で、戦いの直前に、松平元康が実母・於大の方に会いに行った時、織田方の水野氏(於大の方の実家)と打ち合わせたのだそうです。

永禄3年(1560)5月8日 今川義元、三河守就任
永禄3年(1560)5月19日 今川義元、桶狭間で討死
永禄4年(1561)1月20日 「當國と岡崎鉾楯之儀」
永禄4年(1561)2月 松平元康、将軍・足利義輝に馬を献上
永禄4年(1561)4月11日 牛久保城の戦い「岡崎逆心之刻」
永禄4年(1561)6月17日 「今度松平蔵人逆心」
永禄4年(1561) 今川氏真、龍拈寺口で松平方の人質を串刺し
永禄5年(1562)1月 織田信長と「清洲同盟」締結
永禄5年(1562)2月4日 上ノ郷城攻め

「松平元康が今川家を離反した時期」については、現在、学会で論争中で、「自立」の定義にもよりますが、最も早い説が、「桶狭間の戦い」の戦いの翌日・永禄3年(1560)5月20日の岡崎城入城です。
その次に早いのが永禄4年1月20日以前説です。永禄4年1月20日付で足利将軍義輝が今川氏真に宛てた手紙に「当国と岡崎鉾楯の儀に就き」「閣(おのおの)是非をさしおき早速和睦せしめるは、神妙たるべき候」(今川と松平が矛と盾のように対立しているが、早々に和解せよ)とあります。当然、同じ手紙が松平元康にも出されたはずで、この和解要請に対し、松平元康は、2月に足利義輝に「嵐鹿毛」という駿馬を献上して自分の意志を伝えたようです。
足利将軍の仲介を拒否し、4月11日の夜(当時は日没で日付が変更されたので、史料によっては「12日」とある)に、東三河における今川方の1つの拠点(東三河の中心である吉田と奥三河の中継点)であった牛久保城を攻撃したのが、自立の最初の意思表明だとする説が最も支持されています。

牛久保城址公園

 

現地案内板の古地図(JR牛久保駅が本丸の西端)

ただ、「牛久保城の戦い」は、牧野平左衛門父子が今川方から松平方に移って蜂起し、それを家臣の稲垣重宗らが阻止した戦いであり、松平元康は参戦していません。
5日後の4月16日付の今川氏真から稲垣重宗への朱印状には、「今回の戦功により、牧野平左衛門の土地の一部を稲垣重宗に与える」とあります。

符参拾貫門之事
右、今度牧野平左衛門入道父子、去十一日之夜令逆心、敵方江相退之上、彼母割分弐拾貫文之地、年来令奉公之条、彼切符参拾貫文之内弐拾貫文之改替、為新知行所充行也、相残拾貫文者□□定之地可申付之、□合参拾貫文也、然者従来秋中可遂所務、至其時当夏納所共可請取之、守此旨弥可抽忠節之状如件。(□は判読不明)

【現代語訳】切符30貫文の事
右表題の件であるが、この度、牧野平左衛門入道父子が去る11日の夜、反逆して敵方(松平方)へ逃げたので、彼(牧野平左衛門入道)の母に割り当てられた20貫文の地は、(稲垣重宗が)ずっと奉公してきた土地であるので、彼(牧野平左衛門入道)の切符30貫文の内、(彼の母親に当てた)20貫文を代替し、新知として(稲垣重宗に)宛行う。(切符30貫文の内、)残る10貫文は、□□が定める地を知行することを申しつける。(両方)合わせて(表題の)30貫文になる。今年の秋から所務(徴税)を始めればよいが、その時、今年の夏に納める分も受け取りなさい。この旨を守り、さらに忠節に励むように。

※6年後の永禄10年(1567)8月5日付の今川氏真の鈴木重勝と近藤康用宛の判物で、今川氏真は、「去酉四月十二日岡崎逆心之刻」(永禄4年4月12日に岡崎殿(岡崎城の松平元康)が今川氏に反逆した時)における両者の戦功を評価しています。

十三本塚(龍拈寺口で串刺しにされた13人の墓)

永禄4年(1561)6月17日付の今川氏真から奥寺道紋入道(貞勝)宛の判物に「今度松平蔵人逆心の刻、入道父子覚悟をもって別状無きの段、喜悦に候」とあり、松平元康の反逆を確信して、同年(月日不詳)、龍拈寺口で松平氏と松平方に移った武将の人質13人を串刺しにしたのでしょう。

清州城(愛知県清須市朝日城屋敷)

「義元の子上總介氏眞は父の讐とて信長にうらみを報ずべきてだてもなさず、寵臣三浦などいへるものゝ侫言をのみ用ひ、空なしく月日を送るをみて、信長は君をみかたとなさんとはかり、水野信元等によりて詞をひきくし禮をあつくしてかたらはれけるに、君も氏眞終に國をほろぼすべきものなりとをしはかりましまし、終に信長のこひにしたがはせ給へば、信長も悅なゝめならず。かくて君淸洲へ渡らせたまへば、信長もあつくもてなし、「是より兩旗をもて天下を切なびけ。信長、もし天幸を得て天下を一統せば、君は旗下に屬したまふべし。 君、もし大統の 功をなしたまはゞ、信長、御旗下に參るべし」と盟約をなして後、あつく饗應まいらせて歸し奉る。」

(【大意】今川氏真は、三浦義鎮(今川氏を衰亡させた奸臣)の操り人形で、弔い合戦もしないで無駄に月日を過ごしていた。織田信長は、水野信元(松平元康の実母・於大の方の兄。松平元康の伯父)の進言で、当時、松平元康の片腕であった石川数正に和睦を申し込み、協議の結果、清州城で「今日からそれぞれ1本の旗を持って天下を狙おう。織田信長が天下を取れば松平元康は織田信長の旗の下に、逆に、松平元康が天下を取れば織田信長は松平元康の旗の下に」と同盟を結んだ。『東照宮御實紀』)

永禄5年(1562)1月、松平元康は、織田信長と清州城で「清洲同盟」を締結しました。

──此上ハ両旗ヲ以テ天下一統スベシ。今ヨリ水魚ノ思ヲナシ、互ニ是ヲ救ン事聊モ偽リ有ベカラズ。(木村高敦『武徳編年集成』)

清州同盟の締結の様子については、「紙に『牛』と書いて3つにちぎり、盃に浮かべ、3人(織田信長、水野信元、松平元康)で飲んだ」等、詳細に伝わっていますが、徳川家康研究の基本となる『信長公記』『三河物語』『松平記』に清須での会見について書かれていませんので、学者は「江戸時代の創作」だとしています。しかしながら、松平元康が織田信長と同盟を結んでいたことは確かなようです。また、「同盟」と言っても、いざという時には破られるものですが、この「清洲同盟」は、織田信長が死ぬまで破られることはありませんでした。

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

 

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