妙雲寺(井伊直虎の菩提寺)

井伊家を訪ねて

ありがとう直虎……そして井伊直政は赤鬼になった

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《 天正10年(1582) 略年表 》
6月2日 本能寺の変。織田信長、没。
6月13日 羽柴秀吉軍、明智光秀軍を破る。
6月14日 徳川家康、鳴海まで進軍。
6月19日 羽柴秀吉より明智光秀討取を告げる使者来る。
6月27日 清州会議。織田信長の後継者は三法師に決定。
7月2日 徳川家康、岡崎城から甲府に向けて出陣。
8月10日 徳川軍(新府城)と北条氏直軍(若神子城)が対陣。
8月26日 祐圓尼(井伊直虎)、示寂。
10月29日 徳川軍、井伊万千代を使者に、北条軍と和議締結。
11月 井伊万千代、和議締結の功で4万石に加増される。

「本能寺の変」後、徳川家康は、明智光秀を倒そうとするが、いとも簡単に羽柴秀吉軍が明智光秀軍を破ってしまった(「山崎の戦い」)。
徳川家康は、亡くなった穴山梅雪の領土を鎮める大義名分を得て、織田遺領の争奪戦(「天正壬午の乱」)を開始。そして、徳川軍(新府城)と北条氏直軍(若神子城)は、80日間も対陣した。(この間、祐圓(ゆうえん。井伊直虎)が亡くなり、井伊万千代は、祐圓を看取れなかった。)
そして、北条軍との和解の使者に選ばれたのは、なんと、なんと、井伊万千代(22歳)と木俣守勝(28歳)であった。
この大役を見事に成し遂げた井伊万千代の領地は倍の4万石となった。

長久手合戦図屏風(豊田市郷土資料館)

天正10年冬 井伊万千代、元服し、「直政」と名乗る。
天正11年1月11日 井伊直政、徳川家康の養女・花と結婚。
天正11年4月24日 柴田勝家、北ノ庄城にて、お市と共に自害
天正11年4月29日(5月2日?) 大御堂寺にて、信孝、自害。
天正12年4月9日 長久手の戦い。井伊直政、戦功により6万石に加増さる。

井伊家宗主・祐圓が亡くなったので、井伊万千代は、元服して「直政」と名乗り、井伊家第24代宗主となった。また、武田遺臣を家臣に加え、甲冑や武具を赤色で統一した(「赤備え」)。

史料:『東照宮御実紀』

甲斐の一條、土屋、原、山縣が組の者共は、おほかた井伊直政が組になされ、「山縣昌景が赤備いと見事にて在し」とて、直政が備をみな赤色になされけり。この時、「酒井忠次に甲州人を召しあづけられんとおぼしめせども、それより、若輩の直政を引立むが爲に、かれに附屬せしむ」と宣ひければ、忠次承り、「仰の如く、直政、若年な れども臆せし樣にも見え侍らねば、か の者共、附け給はゞ、いよいよ勉勵せん」と申す。その比、榊原康政、忠次が許に來り、「甲州人を半づゝ引分て、われと直政兩人に付らるべきに、直政にのみ預けられしは口惜くも侍るものかな。康政、何とてかの若輩ものに劣るべきや。此後、もし直政に出合ば、指違へんと思ひ、今生の暇乞に參 たり」といへば、忠次、「さてさて、御事はおこなる人 哉。殿には我に預けむと宣ひしを、我勸めたてまつりて直政に附しめし之、さるを聞分ずして、卒爾の擧動もあらば、殿へ申すまでもなし。汝が妻子、一族をみな串刺にしてくれんずものを」と。以の外にいかり罵りけるとぞ。(『武功實錄』)

【大意】 武田の最強軍団「赤備え(山縣隊)」について、徳川家康は、酒井忠次を呼んで、「そなたに付けようと思ったが、井伊の若造に付けようと思う。どうじゃ?」と言うと、酒井忠次は「仰せの通り、井伊直政に付ければ張り切るでしょう」と言った。榊原康政が酒井忠次のところへ来て、「2つに分けて、儂と井伊直政に付ければ良いのに、全員、井伊直政に付けるとは、悔しい。井伊直政と刺し違えて死ぬので、別れに来た」と言うと、酒井忠次は、「殿は儂に付けようとしたが、儂が井伊直政を推挙したのじゃ。お主が井伊直政と刺し違えたら、儂が残されたお主の妻子や一族を皆殺しにしよう」といつになく激しく怒った。

織田信長の後継者問題であるが、織田信忠が生きていれば、問題なかったのであるが、彼は、「本能寺の変」後、二条古城で討死した。
・長男:織田信忠(1557-1582)
・次男:北畠信雄(1558-1630。北畠具房の養子)
・三男:神戸信孝(1558-1583。神戸具盛の養子)
・四男:羽柴秀勝(1569-1586.羽柴秀吉の養子)

天正10年6月27日、清洲城において信長の後継者と遺領の分割を決めるために「清洲会議」が開かれた。
後継者として、次男・信雄が名乗り出たが却下され、織田家重臣・柴田勝家が推す三男・信孝と、明智光秀討伐の功労者・羽柴秀吉が推す信忠の長男・三法師(後の織田秀信)の争いとなり、「長男が継ぐのが良し」と三法師(当時2歳)が後継者となり、信孝は、三法師の後見人となった。

※次男・信雄:後継者レースに出ようとしたが、凡人なので出してもらえなかった。母は長男・信忠と同じ生駒吉乃。(織田信長の正室は濃姫(斎藤道三の娘)だが、濃姫に子はおらず、数多くの側室には子があった。その嫉妬から夫・織田信長を殺した(親戚の明智光秀に情報を伝えた)というのが「本能寺の変・濃姫共謀説」である。)4月4日より後に生まれたというが、それでは三男になってしまうので、誕生日は極秘(トップシークレット)である。

※三男・信孝:4月4日生まれ。実は次男だが、信孝生誕の報告が織田信長に届くのが、信雄生誕の報告よりも遅かったので三男にされたというが、それは修正すればいいだけであり、実際は、母の身分が低かったので、三男にさせられた(後継者としてに優先順位を下げられた)のだという。気性が激しい武士らしい武士で、織田信長を継ぐスペックを十分に備えていた。

※四男・秀勝:羽柴秀吉の養子であるので、羽柴秀吉が後継者レースに出させなかった。出せば、「羽柴秀吉は、天下を取ろうと考えている」と思われてしまう。

その後、三法師を擁する羽柴秀吉が台頭してきたので、「出る杭は打つべし」と、信孝(三男)・柴田勝家(忠臣)らが天正11年(1583)4月に蜂起し、「賤ヶ岳の戦い」が起きた。
同年4月24日 柴田勝家は、北ノ庄城にて、三姉妹(淀君、初、江)を逃し、妻・お市と共に自害。ホトトギスが鳴いていたという。

夏の夜の夢路はかなき跡の名を 雲井にあげよ山ほととぎす(柴田勝家辞世)

さらぬだに打ちぬる程も夏の夜の 夢路をさそふほととぎすかな(お市辞世)

次いで4月29日(5月2日?)、内海の大御堂寺(通称「野間大坊」)にて、信孝、自害。信孝は、切腹の際、腹をかき切って腸を取り出すと、引きちぎって、床の間の掛け軸に投げつけたという。辞世は、

昔より主を討つ身の野間なれば むくいをまてや羽柴筑前

で、「討つ身(うつみ)」を野間大坊がある「内海(うつみ)」と掛けている。
なお、「昔より」とは、源義朝が家臣の長田親子に入浴中に襲われ、「我れに木太刀の一本なりともあれば」と言いつつ殺されたことを指す。

翌天正12年(1584)3月6日、信雄(次男)による三家老の殺害事件が起きた。
殺害理由は、「羽柴秀吉に内通したから」だそうで、これは「羽柴秀吉は敵である」と言うに等しく、羽柴秀吉が攻めてきたので、織田信雄は、徳川家康に助けを求めた。
この羽柴秀吉軍と信雄(次男)&徳川家康連合軍の各地での衝突の総称を「天正十二年の東海戦役」という。中でも同年4月9日に行われた井伊直政のデビュー戦である「長久手の戦い」が有名で、この戦いでの活躍により、井伊直政は「井伊の赤鬼」として恐れられる存在になった。

史料:長久手の戦いでの井伊直政(1):『東照宮御実紀』

長久手の役に、夜中小牧を御立有しが、「勝川」といふ所にて、夜ははや明はなれたり。(中略)士卒に御下知有しは、「人數押の聲、『ゑい、とう、とう』といふはあしく、『ゑい、とう、ゑい』といふべし」と命ぜられ、いそぎ川を渡て御勢を進めらる。井伊万千代直政が赤備一隊をやりすぎて、行伍の亂れしを御覽 じ、「あれとゞめよ。足並亂して備を崩すこと があるものか。木股はおらぬか、淸左衛門は居ぬか。木股に腹を切せよ」とて、御使番頻りに馳廻りて制すれば、漸くにしづまりぬ。直政、山を越て人數を押むといふに、廣瀨、三科の兩人、「小口にて息がきれてはならぬ」といふ。直政、「何ならぬ事があるものか」といふ所へ近藤石見馳來り、「かゝる事は若大將の知事にてなし」といひつゝ、直政が馬のはな引かへし、脇道より敵陣へ打てかゝる。(中略)勝入も「引な。かへせ」と下知すれど、崩れ立ていよいよ敗走する所に、永井傳八郞直勝、遂に勝入を討とりしかば、これより上がた勢、惣敗軍になりしなり。(『柏崎物語』『東迁基業』)

【大意】 甲州衆(日本一の旧・山県隊など)は、井伊直政に付けられたが、甲州衆は、井伊直政を、「若造」だと見くびっていた。徳川家康が井伊直政の手を握り、「さらばよ」と言うと、井伊直政が「されば」と言ったので、甲州衆が「そのような弱気な挨拶ではダメだ」と叱ると、井伊直政は、「殿に合わせたまで」とはねのけ、自ら先頭に立った。

行進の時、徳川家康は、「えい、とう、とう」ではなく、甲州流の「えい、とう、えい」でと指示したとあるが、三拍子では歩けないであろう。
井伊隊の進軍時の掛け声は、通常の「えい、えい」ではなく、甲州流の「えいと、えいと」だと思われるが、いざ戦いとなると、戦場で赤は目立ち、「行伍」(隊伍、隊列)の乱れが気になり、徳川家康は、「見苦しい。木俣守勝を呼べ。腹を切らせる」と命じたが、使番・大久保忠隣が整えて、こと無きを得た。

井伊直政が山を越えようとすると、甲州衆の三科伝右衛門形幸が「山を越えたら鉄砲で撃たれる」と止めた。井伊直政は「うるさい」と槍を三科形幸に向けたので、甲州衆の広瀬美濃守景房が走り出て、その槍を掴んだ。井伊直政が広瀬景房をはねのけると、今度は、近藤石見守秀用(康用の子)来て、兜をつかみ、耳元で「戦いの最中は、大将は陣中にいて、下知(命令)するものだ」と言うと、井伊直政は激怒し、「儂を止めたり、儂より遅れる者は男にあらず」と言い返したので、近藤秀用は、井伊直政の愛馬「黒半月」(三寸四分(約10cm)の黒い立髪を持つ栗毛の名馬)の口輪を危険な山頂ではなく、安全な山裾に向けると、槍の柄で、馬の尻を力任せに打ったという。以上、はちゃめちゃの戦いではあったが、甲州衆は、一応、井伊直政を自分たちの大将と認めたという。

なお、敵の大将・池田勝入(恒興)は、松平信康の近習であった永井伝八郞直勝が討った。池田勝入の長男(嫡男)・元助も討たれたので、家臣が気を利かせて、次男・輝政に「勝入と元助は既に退却した」と嘘をついて輝政を退却させた。生き残った池田輝政は徳川家康に臣従し、文禄3年(1594)には督姫(徳川家康の次女)と結婚しているが、この時、「父・池田勝入(13万石)を討った永井直勝は何万石の大名に出世したか?」と聞くと「5千石」と答えられ、「父の首は5千石にも満たないのか」と嘆いたという。

この「天正十二年の東海戦役」で、「家康、手強し」と、羽柴秀吉は、信雄(次男)を集中して攻め、和議にもちこんだ。
人質として、信雄(次男)は、徳姫(織田信長の娘。徳川家康の長男・信康の正室)、徳川家康は、長男・信康は自害していたので、次男(実質上の嫡男)の於義丸(後の羽柴秀康)を人質として差し出した。(この後、紆余曲折あり、江戸幕府は、三男・長松(後の徳川秀忠)が引き継ぐことになる。)
こうして、天下布武は、「織田信長の後継者による天下取り」から、「羽柴秀吉による天下取り」にすり変わったのである。

 

第50話「石を継ぐ者」 あらすじ

サブタイトルの「石」は、井伊直虎の「遺志」と小野政次の「碁石」を掛ける。

ドラマでは、井伊万千代の元服の時、南渓和尚のアイディアで、徳川家康は、井伊家の通字「直」と、小野家の通字「政」で「直政」とした。井伊直虎と小野政次の遺志を受け継いだのが井伊直政ということか。

史料:『名将言行録』「井伊直政」

直政は、天下に両兵部と言はれし其一人なり。小早川隆景、嘗て曰く、「直政は小身なれども、天下の政道相成るべき器量あり」と。

井伊直政は、政治的手腕(特に外交手腕)に長け、「直政」の「政」は、「政事」(まつりごと)の「政」であり、「直康」を辞退して「直政」としてしまったがために、榊原康政に(年は離れているが)ライバル視されたという。官位「兵部少輔」は、「甲山の猛虎」と称された「飯富兵部少輔虎昌」(赤備えを最初に率いた武将)にちなむというが、井伊兵部少輔直平によるともいう。

※「天下両兵部」(「両」は「2」の意で、飯富兵部少輔虎昌と井伊兵部少輔直政)

※「天下三兵部」(飯富兵部少輔虎昌と浦兵部丞宗勝(乃美宗勝)と井伊兵部少輔直政)

──井伊直政は、井伊直虎から何を受け継いだのか?

単純に考えれば、「家督」であるが、ドラマでは、遺志(徳川家康を天下人にして戦のない世を創る)とする。井伊直政に受け継がれたのは、硯と「うむ」という口癖だけではないのだ (^∇^)

人の命は有限であるが、先代の遺志を繋いでいけば、「命脈」「家風」(今風に言えば「井伊家のDNA」)として、無限の、永遠(とわ)の命を持つ。

井伊直政「碁石?」
南渓和尚「井伊の魂じゃ」
井伊直政「井伊の魂?」
南渓和尚「何じゃと思う? それは」
井伊直政「井伊は、井戸端の拾い児が作った国。故にか、殿はよそ者に温かかったです」
南渓和尚「うむ。それから?」
井伊直政「民には、竜宮小僧のようにあれかしとし、泥にまみれることも厭わず、恐れず…戦わずして生きていける道を探る」
南渓和尚「殿は小さな谷でそれをやった。そなたは、それを、この日本を舞台にやるのじゃ。頼んだぞ!」

龍潭寺「井伊家歴代の墓所」の供養塔

龍潭寺は、井伊直虎の父・井伊直盛の菩提寺であるが、江戸時代に遠江井伊家の菩提寺として整備された。その時にたてられた「井伊家歴代の墓所」の供養塔(上の写真)は、奥(写真右)から順に、

・井伊直盛の妻・祐椿尼
・井伊直盛の娘・祐圓尼(井伊直虎)
・井伊直盛の養子・井伊直親
・井伊直親の妻・奥山ひよ(ドラマでは「しの」)
・井伊直親の子・井伊直政

である。

井伊直親は、直虎とひよに挟まれて幸せそうだ (*^o^*)

ドラマ的には、井伊直親が天国、小野政次が地獄と離れ離れにならなかったようだ。
4人共天国なのはめでたいが、井伊直親、小野政次、龍雲丸で井伊直虎争奪戦が繰り広げられそうだ (≧∇≦)

井伊谷の「共保公出生の井戸」(レプリカ)

 

「理想のエンディング」ってどういうエンディングかな?

私なら、井伊直政が、元服の報告に井伊谷の「共保公出生の井戸」に来ると、これまで死んでいった人たちの亡霊が現れて、「頼んだぞ」「頼みましたよ」とかって、一人ひとり、井伊直政に声を掛けて終りにする。

ドラマは、長久手の合戦シーンで終わったが、井伊直虎は「合戦の無い世を見たい」と望みながら死んでいったので、合戦シーンで終わったのでは、供養にならない。
平和な世を井伊直虎に見せて終わらせるべきだ。(ということは、井伊直虎が棚田を見るシーンで終らせればよかったのか? 井伊直虎的平和とは、小野政次と仲が良いことを悟られないように人目を忍んで夜にではなく、昼間に囲碁を打てる事なのか?)

「(伝)井伊直政所用・朱漆塗紺糸縅桶側二枚胴具足」(彦根城博物館)

史料:長久手の戦いでの井伊直政(2):新井白石『藩翰譜』

十二年三月、羽柴筑前守秀吉、主の北畠殿と不快の事出来て、軍起こる。信雄中将、頼み参らせ給ひしかぱ、徳川殿見張国に向かひ玉ひ小牧に御陣をめされけり。御方の御勢わづか一万五千には過ぎず。秀吉の十五万騎、こなたに向かひて陣を取り、二万余騎を引分けて三河国を襲はんとす。徳川殿此の由を聞召し、さらば此方も出向きて戦ふべしとて、密に御勢を引分けて差向けられ、みづから続きて長湫にかはる。直政御先に進む。御方の先陣、既に敵の後陣を打破り、敵さんざんに打ちなされ、先陣の勢と一つになり、取つて返して戦はんとす。直政が赤旗、赤幟、朝日の光に輝きて、山よりこなたに馳せおろし、立ざま、横さま、かけ破る。敵、終に打負けて、大将あまた討たれしかぱ、士卒猶いふに及ばず。京家の者共直政を「赤鬼」と名づけしは此の時よりの事なりけり。

【大意】 天正12年(1584)3月、羽柴秀吉は、主君・北畠殿(北畠(織田)信雄)と不和となり、戦となった。織田信雄に支援を頼まれた徳川家康は、尾張国に向かい、小牧山城に本陣を置いた。この時、軍勢は、たったの15000人であった。

一方、羽柴秀吉軍は、10倍の15万人で、小牧山の北東にある楽田城を本陣とすると、2万人を三河国岡崎へ向けて出陣させた。(これを「三河中入り」という。)敵・羽柴軍の出陣を聞いた徳川家康は、

「ならば、こちらも出陣しよう」

と言い、複数の軍隊に分け、自らは「長湫」(長久手)へ、井伊直政を先頭にして向かった。
徳川軍の先陣は、岡崎へ向かう敵・羽柴軍の後陣に追いついて、打ち負かした。敗報を聞いた敵・羽柴軍の先陣は、岡崎攻めをやめ、引き返してきた。これを迎え撃ったのは、徳川家康と井伊直政である。この時、井伊隊の赤い軍旗や幟が山の上で朝日の如く輝いたと思ったら、山を下り、敵・羽柴軍をうちのめした。大将たちを討ち取ったので、敵軍は意気消沈した。この時、「京家の者」(公家)は、井伊直政を「赤鬼」と名づけた。

天照大神に授けられた「日月松図扇」のレプリカ

史料:長久手の戦いでの井伊直政(3):祖山和尚『井伊家伝記』「直政公尾州長久手先手被仰付侯事」
一 天正十二年甲申三月、太閤秀吉公と織田信雄争戦之事ニ付、権現様、信長之旧好故、御出馬之思召之所ニ、信雄より援兵之旨、申来候故、於濱松軍勢御催之節、直政公於甲州大名一方之大将ニ御取立、一條、山縣、土屋、原四人之武士、其外甲州勢御付被成候。甲州衆江神誓文にて直政公江信玄之軍配不揃相傳可致旨被仰付也。因茲、甲州衆、『正陣記』(或『天正記』とも云、井伊家に相傳有之。軍書なり。右の軍書ニハ、出陣之備立、委細ニ記之者なり。)と申軍記を記録して令言上候故、権現様御安堵にて、則、長久手之先手之大将を直政公江初て被仰付候。猶又、御大切に思召候故、井伊谷三人衆、近藤石見守、鈴木平兵衛、菅沼次郎右衛門を与力に被仰付、又外ニ甲州衆七拾人、遠州濱松秋葉山にて血判被仰付、御付為遊候。右血判之書付、今に濱松秋葉叶坊方に有之。血判之所ハ、くさり申候由。(中略)直政公廿四之御時也。(『太閤記』に直平公十八歳と有之ハ誤なり。又、井早田末葉と有之ハ猶以誤なり。)其節ハ、祐椿、次郎法師ハ御遠行。實母斗御在命故、俄ニ大名大将之御威勢御満足に被思召候得共、大軍之先手、殊之外、氣遣ニ思召、松下源太郎を以、種々御立願有之候。右御立願之訳にて、天照大神ゟ黙宗和尚江御授被為遊候、「日月松有之金銀の扇子」を直政公先手大将之陣扇に被遣候。右之扇子ハ宝物故、龍潭寺に相傳。則、扇子に記録有之。於井伊谷、南溪和尚弟子衆両人被遣候。出家といへとも武藝達者に御座族。壱人ハ、傑山と申候て、強弓なり。壱人者、彦根龍潭寺開山昊天なり。長刀上手にて今以一宗にて「長刀昊天」と申候。於長久手、池田勝入、森武蔵両備を追崩、敵数多討取、直政公御自身高名勝利を得也。合戦之次第、諸軍記ニ有之。

【大意】 天正12年(1584)3月、豊臣秀吉公と織田信雄との戦いが起きた。徳川家康は、織田信長との旧交により、出陣しようと思っていた所に、織田信雄から援軍の要請があったので、浜松において、軍勢を整え、井伊直政に甲州衆(一條衆、山縣衆、土屋衆、原衆の「甲州四手」)、その他、関東の浪人(小田原衆、上州衆など)を付けた。甲州衆には、「神誓文」(起請文、誓紙。熊野牛王宝印の裏に書いた血判状)を書かせ、井伊直政へ、武田流(甲州流)の軍法を全て伝えるように仰せ付けられた。井伊直政は、甲州衆に武田の軍法を聞いて軍法書『正陣記』(『井伊氏天正記』とも)として記録したことを伝えると、徳川家康は安心し、井伊直政を「長久手の戦い」の先鋒の大将に初めて仰せ付けた。なお、徳川家康は、井伊直政を大切に思っており、「井伊谷三人衆」(初代は近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久で、二代目は近藤秀用・鈴木重好・菅沼忠道)を与力として付け、他にも、甲州衆70人を遠江国浜松の秋葉山で血判状を書かせて付けた。この血判状「天正壬午甲信諸士起請文」は、今も「叶坊」(加納坊。現在の浜松秋葉神社)にあるが、血判は黒ずんでいる。(注:浜松秋葉神社にあったが、浜松大空襲で焼失した。)

※『井伊氏天正記』(デジタル・アーカイブ

(中略)これは、井伊直政公が24歳の時のことである。(『太閤記』に「直平公18歳」とあるが、誤りである。また、「井早田氏の子孫」ともあるが、これもまた誤りである。)この「長久手の戦い」の時は、祐椿尼(井伊直虎の実母)や次郎法師(井伊直虎)は亡くなっていて、井伊直政の実母だけが生きていた(実際は、井伊直平の子の南渓和尚も生きていて、井伊直政に「井伊家の軍旗は井の字の紋で、吹き流しは正八幡大菩薩である」と教えている)。井伊直政は、突然、大将に指名され、やる気満々ではあったが、大軍の先鋒となると心配もあり、松下源太郎清景(実母の再婚相手)が、戦勝祈願などをした。その時、天照大神が霊夢で授与された「日月松図扇」を、南渓和尚が、先鋒の大将に任命された井伊直政に陣扇として使うよう授けた。この扇は、現在も井伊谷の龍潭寺に寺宝として保管されている。(痛みが激しく、展示できないとして、平成29年(2017)、レプリカ(上の写真)が作られて公開された。)さらに南渓和尚は、2人の弟子を遣わした。この2人は、僧侶ではあるが、武芸にも通じていた。一人は「傑山宗俊」(後の龍潭寺三世)といって、強弓(つよゆみ、ごうきゅう)の引き手である。もう一人は、「昊天宗建」(後の龍潭寺五世にして彦根の龍潭寺開山)といって長刀(なぎなた)の達人で、「長刀昊天」と呼ばれていた。この「長久手の戦い」において、井伊直政は名をあげ、「井伊の赤鬼」と呼ばれて恐れられた。

 

【今回の言葉 「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、すわりしままに食うは徳川」】

【出典】 天保期、あるいは、嘉永期の落首

「織田がつき羽柴がこねし天下餅 座して喰らふは徳の川」とも。

【意味】 織田信長が搗き、羽柴秀吉がこねた「天下」という名のお餅を、横で座って見ていただけの徳川家康が食べた。(「天下統一」という大事業は、織田信長が始め、羽柴秀吉が継いで、苦労して成し遂げるたのであるが、完成すると、徳川家康が横から奪った。)

小学校の社会科の教科書

小学校の教科書に掲載された超有名な落首。この落首をもとに、歌川芳虎が、天保8年(1837)、または、嘉永2年(1849)閏4月に描いた諷刺画「道外武者御代の若餅」で有名になった。この諷刺画では、織田信長が杵を持って搗き、明智光秀がこね、羽柴秀吉が長方形に伸ばし、徳川家康が切って食べている。

※清水勲編『近代日本漫画百選』(岩波文庫)より「徳川を攻撃する諷刺画」(一部改)

幕末の諷刺画は、絵師のアイデアのみでつくられたとは限らない。連というサロンでの俳諧・川柳・短歌・読本の作家たちとの交流の中から生まれたものである。たとえば、天保期あるいは嘉永期に生まれたと思われる落首にこんな作がある。

織田がつき羽柴がこねし天下餅 座して喰らふは徳の川

「徳の川」は「得の側」に掛けたものだろうか。徳川は先人の苦労の上にあぐらをかき甘い汁を吸っている、と酷評しているのである。この強烈な歌は絵師によってビジュアル化された。歌川芳虎「道外武者 御代の若餅」嘉永2(1849)年である。織田信長がつき豊臣秀吉がこねてできた餅を徳川は楽して食べている。まさに「君が代をつきかためたり春のもち」である。歌川芳虎はこの絵によって、版元と共に版木焼棄と手鎖五十日の刑に処せられたという。徳川を諷刺したことと、天正以来の武者絵に名前または紋所、合印などの記入を禁じる令に反したためだといわれる。

追平陶吉作「徳川家康」

実際、徳川家康が、何も苦労しなかったかと言えば、ドラマで描かれたように、妻子を亡くしたり、三方ヶ原での敗北、伊賀越えなど、多くの苦労をしている。

苦労しないで得たとしても、260年もの「パクス・トクガワーナ」「泰平の眠り」は、横取りしただけでは築けない。深慮遠謀が必要である。
政権維持の工夫は、長子相続制(後継者争いが起きないように、必ず長男に家督を譲るという規則)であり、複数の家老による合議制(その長男が暗愚であった場合は、優秀な家老たちの合議で事を決める)である。

怠らず行かば千里ちさとの果ても見む
牛の歩みのよし遅くとも
by 徳川家康

 

キーワード:龍潭寺歴代住職(血脈)

勧請開山:文叔瑞郁(1467-1535。松源寺(亀之丞の逃亡先)の住職)

開山(一世):黙宗瑞淵(1463-1554。1532年「黙宗」)
二世:南渓瑞聞(不詳-1589。井伊直平の三男?1551年「南渓」)
三世:傑山宗俊(不詳-1592。1556年「傑山」)
四世:悦岫永怡(不詳-1622。織田信長の次男?)
五世:昊天宗建(不詳-1644。1600年「昊天」)

歴代住職墓所(左から悦岫和尚の墓、南渓和尚の墓、標石、文叔和尚の墓、傑山和尚の墓)

【参考】龍潭寺公式サイト「歴代住職墓所図」

※「□□■■」という名の「□□」を道号、「■■」を僧名(戒名)という。

※血脈(けちみゃく):【仏教用語】 師から弟子へと「法」(仏教の精髄)を受け継ぐ関係。師弟の系譜。

寛政4年(1463) 黙宗瑞淵(久留女木村の大倉氏)生誕。
応永元年(1467) 文叔瑞郁(市田郷の松岡氏)生誕。
天文元年(1532) 瑞淵、文叔瑞郁から「黙宗」の道号を授かる。
天文元年(1532) 井伊直平、黙宗瑞淵を開山とし、龍泰寺(龍潭寺)を造営。
天文4年(1535) 亀之丞(井伊直親)生誕。
天文4年(1535)12月2日 文叔瑞郁、松源寺で示寂。
天文13年(1544)12月29日 亀之丞(井伊直親)、市田郷松源寺へ逃亡。
天文20年(1551) 瑞聞、黙宗瑞淵から「南渓」の道号を授かる。
天文23年(1554)4月6日 黙宗瑞淵示寂。南渓瑞聞、龍泰寺(龍潭寺)2代住職に就任。
弘治元年(1555)2月 亀之丞(井伊直親)、市田郷松源寺から帰還。
弘治2年(1556)1月 宗俊、南渓瑞聞から「傑山」の道号を授かる。
永禄3年(1560)5月19日 井伊直盛、討死。「龍泰寺」を「龍潭寺」に改名。
天文12年(1584)4月9日 長久手の戦い。傑山宗俊、昊天宗建参戦。
天正17年(1589)9月28日 南渓瑞聞示寂。傑山宗俊、龍潭寺3代住職に就任。
文禄元年(1592)12月5日 傑山宗俊示寂。悦岫永怡、龍潭寺4代住職に就任。
慶長5年(1600) 宗建、悦岫永怡から「昊天」の道号を授かる。
慶長11年(1606)8月15日 新田喜斎が気賀で処刑。悦岫永怡が葬式執行。
元和3年(1617) 彦根に龍潭寺創建。開山は昊天宗建。
元和9年(1622)8月18日 悦岫永怡示寂。昊天宗建、龍潭寺5代住職に就任。
正保元年(1644)12月10日 昊天宗建示寂。萬亀惟鑑、龍潭寺6代住職に就任。

【参考】 龍潭寺公式サイト「龍潭寺歴代住職」

 

黙宗瑞淵頂相

このドラマで、初回から最終回まで完走したのは、主人公・井伊直虎と龍潭寺の南渓、傑山、昊天の三和尚です。

(1)開山・黙宗瑞淵と二世・南渓瑞聞

ドラマでは、

・亀之丞の松源寺への逃亡時の龍潭寺の住職は南渓和尚。
・おとわが出家した時の龍潭寺の住職は南渓和尚。

としていますが、龍潭寺公式サイトを参考に、年表を作ってみると、

・亀之丞の松源寺への逃亡時の龍泰寺の住職は黙宗和尚。
・おとわが出家した時の龍泰寺の住職は黙宗和尚。

が史実となります。「おとわが出家し、『次郎法師』と名付けられた時の龍潭寺の住職は南渓和尚」としたいのであれば、おとわの出家は、

・南渓瑞聞が龍泰寺2代住職に就任した天文23年4月6日以降

かつ

・井伊直盛が討死し、彼の戒名から龍潭寺に改名した永禄3年5月19日以降

となります。

 

(2)三世・傑山宗俊と五世・昊天宗建

ドラマでは、「武の傑山、知の昊天」とまるで仁王様(南渓和尚の両腕)のような存在ですね。

昊天和尚は、彦根では、弓の達人として知られていますが、井伊谷では「薙刀の昊天」であり、彼が使った薙刀が龍潭寺に展示されています。その独特な刃の反りは「昊天反り」と呼ばれているそうです。

「長久手の戦い」(1584年)に「薙刀の昊天」と「弓の傑山」が参戦したと聞くと、「2人は同世代で、共に若い」と思い込んでしまいますが、若いのは、昊天だけでしょう。昊天和尚は、1644年に示寂しています。井伊直親と同じ1535年生まれだとすると、享年は109歳になってしまいますので、井伊直親よりもかなり若いと思われます。

 

(3)四世・悦岫永怡

慶長11年(1606)8月15日、新田喜斎が徳川の手で、気賀で処刑されました。この時、気賀の寺の住職たちは、罪人の葬式を執行することを躊躇しましたが、龍潭寺住職・悦岫和尚は、「私は織田信長の子であり、徳川は怖くない」と言って、葬式を執行したそうです。

この悦岫和尚は、織田信長の次男とも、三男ともされ、その証拠が龍潭寺の寺宝である天目茶碗など、数々の織田信長の遺品です。これらは、次男・信雄が悦岫和尚に送った品々だそうですが、織田氏系図には、悦岫和尚の名は今のところ、見つかっていません。

ドラマでは「明智光秀の子」としています。「自然」は、既に元服していた次男・光泰の幼名であり、「本能寺の変」の時は10代であり、ドラマのように幼くはありません。ただ、明智光秀は、クーデターが失敗した時、明智一族が滅びないようにと、実子を全国各地に逃しておいたそうですから、自然でなくても、その内の一人なのかもしれません。(明智光秀の子孫で最も有名な人物は坂本龍馬でしょうね。)

悦岫和尚は、「本能寺の変」の10年後の1592年に傑山和尚が示寂して、龍潭寺四世となっています。その1592年に30代(十分に修行を積んで、住職にふさわしい年齢)だとすると、10年前の「本能寺の変」の時には、10代ではなく、20代になりますね。「悦岫和尚=明智光秀の子」説は、「明智光秀=天海和尚」説同様、面白いのですが、それぞれの年齢を考えると、別人でしょうね。

 

キーワード:自耕庵(妙雲寺)

妙雲寺の裏庭の案内板(写真)によれば、

紫陽花が綺麗な妙雲寺の裏庭と案内板

自耕庵とは、井伊直盛が無くなった時、彼の娘が出家して、建てた庵だとありますが、実際は、井伊直盛の妻が出家して、「祐椿尼(ゆうちんに)」と名乗って建てた庵でしょうね。

武田軍が井伊谷を蹂躙した時、自耕庵や龍潭寺は全焼しましたが、松岳院だけは焼け残りました。この時、祐椿尼は、自耕庵から松岳院に移り住んだのでしょう。

その後、自耕庵は、現在地(一説に現在地よりも南)に再建され、井伊直盛の娘である尼の祐圓尼(井伊直虎)は、病死する前の1年間、自耕庵で過ごしたそうです。多分、当時、「伝染する」と考えられていた病気にかかり、隔離されていたのでしょう。しかし、最後は松岳院に移され、南渓和尚が看取ったそうです。

 

現存する元祿12年(1699)の妙雲寺領(横根の寺地)に関する文書「拜上申證文之事(一、横根寺地之儀)」には「自耕庵」とあります。

「拜上申證文之事」(元祿12年(1699)「自耕庵(妙雲寺)文書」)

「自耕庵は祐圓尼の菩提寺であるから」と、明治に入って、樋口和尚が、祐圓尼の戒名「妙雲院殿月舩祐圓大姉」にちなんで「妙雲寺」と変えたそうですが、「妙雲寺」と書かれている江戸時代の古地図(渭伊神社蔵『遠江国引佐郡神宮寺村絵図』江戸後期)が現存しています。

戒名については、『龍潭寺過去帳』には、ドラマのように「月泉祐圓禅定尼」とあります。「妙雲院殿月舩祐圓大姉」という戒名は、江戸時代、祖山和尚(油田の庄屋・尾藤家出身)が、自身が住職である龍潭寺を、「井伊直盛の菩提寺」から「遠江井伊家の菩提寺」に変え、歴代宗主の位牌を新たに作るなどの整備をした時に、新たに付けられた戒名だと考えられています。

妙雲寺では、大河ドラマの放送開始を待つかのように、井伊直虎の位牌、南渓和尚の位牌と頂相が相次いで発見されました。残念なことに、井伊直虎像は、まだ発見されていません。

井伊直虎追善供養(妙雲寺)

追善供養では、戒名「げっせん」は「月舩」であり、「井伊直親と井伊直政を繋ぐ船」と解説されていました。「月」は夜空を渡る船で、「月船」は「上弦の月」ですね。本来は、「月泉寿桂」(月の泉(実はクレーター)と月桂樹)の「月泉(げっせん)」でしょうね。

松岳院

横根(地名)の井伊直虎の墓

最後になりましたが、一年間に渡るご愛読、誠にありがとうございました。

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

主要キャラの史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

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