高天神城(以前は小笠郡大東町。今は掛川市)

井伊家を訪ねて

難攻不落の高天神城~見捨てた勝頼は滅びの道を、落とした徳川は栄光の階段を

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『松平記』に、「時の出頭人・三浦右衛門佐、殊の外、是を好むの間、氏真へもすゝめ申、か様に踊をはやらすといへり。誠に国の滅すべき瑞相とは後に思合候也。」とあります。「踊り」とは、風紀の乱れであり、思い返せば、駿府での踊りの流行は、今川家滅亡の前兆でした。(幕末に愛知県豊橋市から始まったという「ええじゃないか」の大乱舞が想起させられます。)岡崎でも、松平信康が踊りを好んだので、徳川家康は、今川氏真が踊りで国を滅ぼした例を挙げて諫めたそうです。しかし、松平信康の「踊り好き」は、変わりませんでした。

松平氏の短気DNAを受け継いだ松平信康の気性は荒く、「踊りが下手な踊り子を射殺した」と、徳姫は父・織田信長に報告しています。

逆に大浜の永井伝八郎直勝は、「太鼓が上手い美少年」だとして召し上げられ、松平信康の近習になりました。徳川家康が、松平信康を大浜城へ入れたのは、「永井直勝が松平信康を逃してくれるのでは?」と期待しての事かもしれませんが、永井直勝にしたら、そんな事をしたら、自分はもちろん、家族も一族も悉く打ち首ですから、出来ませんでした。そして、松平信康が切腹すると、永井直勝は武士をやめ、大浜に戻って暮しました。(後に、永井直勝を徳川家康が呼び寄せ、永井直勝は、「小牧・長久手の戦い」において、敵(羽柴秀吉)の大将・池田勝入(恒興。池田輝政の父)を討ちとったのでした。)

「去年、天正四年中、三河遠江にをとりはやり中々冬まてもやます。是は岡﨑三郎殿、すきたまふ故也。『先年、駿河にて、をとりはやり、氏真、ほろひ給ふ。不吉なる事也』と諸人申。岡﨑三郎との、唯大かたならぬ荒人にて、悪敷をとりをは、弓にて射殺し給ふ故に、随分、をとりをけつかうにいたす。其比、大濱より、をとりをかけ申候。其をとり子の中に、大鼓をうちし童、十四、五計に見へて、容顔美麗也しかは、三郎殿、よひて、『たれか子也』とたつ子給ふ。『名主(神主)長田平右衛門子也。此平右衛門もかくれなき兵也。此子も其比かくれなき大鼓の名人也』と申。則、岡﨑三郎殿、『めしつかはるへき』とて、召出され、長田傳八とて、三郎殿に出頭し、三郎殿の後は、家康へ罷出。天正十二年、長久手合戦の、上方の大将・池田勝入を討取、無双の高名したりし永井右近、是也。」(『松平記』)

永井直勝だけではなく、多くの岡崎衆が殉死したり、武士をやめたり、牢人(江戸時代の表記は「浪人」)になったりしました。松平信康直属の30人の武士は、25人が徳川家康の命で、酒井忠次(東三河担当)でも、石川数正(西三河担当)でもなく、「無双の弓手」こと内藤家長に付けられました。残る5人は怒って断り、禄を捨てて逃走したそうですが、後に戻り、内藤家長に付いたとのことです。内藤家長は、徳川家康から、「康」ではなく、「家」の1字を頂く程、徳川家康に信頼されていたようです。

 

第47話「決戦は高天神」あらすじ

織田信長は、娘・徳姫の婿・松平信康(ドラマでは徳川信康)を取り込もうとして、天目茶碗や父・徳川家康と同じ位階をプレゼントしようと申し出たが、松平信康は断り続けた。

そこに徳姫から「松平信康、武田に内通」の連絡が入り、真偽を(安土城完成記念に馬を献上してきた)酒井忠次に問い質すと、否定しなかった(出来なかった?)ので、松平信康を誅殺するよう命じた。

徳川家康は、松平信康を助けるために、すぐに安土城へ弁明には行かず、「北条氏と同盟をしてから行く」という策を立てたが、妻・築山殿にはその策を知らせなかったので、築山殿は、武田と内通していたのは自分だとする偽の証拠を作成して、自害した。

徳川家康は、「北条氏との同盟」があれば、松平信康が助かると思っていたが、さらに「築山殿が武田と内通した証拠」「誅殺した築山殿の首」が増えたので、「これで完璧。松平信康は助かる!」と確信し、安土城では織田信長に大声で堂々と報告した。(「願うて(ねごーて)おります」は大事な事なので、2度言った。)

ところが、織田信長は、目の前の杉桶の中身が「松平信康の首」ではなく、「築山殿の首」と聞いたとたん、不機嫌になり、書状には目を通したものの、杉桶の首の検分は行わず、結局、願いは叶えられず、松平信康は、八幡宮の祭日(井伊谷では流鏑馬が行われる)である9月15日、二俣城本丸の生害松の根元で自害した。築山殿の死は、無駄になってしまった。

「清瀧寺并二俣村絵図」(通称「清瀧寺領絵図」。右が北。)

※築山殿と松平信康の首は岡崎に戻されて埋められた。
※築山殿の胴塚は、御前谷にあったが、100回忌(一説に150回忌)の時に西来院に移葬され、自害した時に着ていた着物は、太平洋戦争の浜松大空襲で焼失した。
※松平信康の胴体は、四方に石垣が積まれた火葬場(1700年頃に描かれたという「清瀧寺并二俣村絵図」(通称「清瀧寺領絵図」)に「三郎様御火葬場」とある)で焼かれ、目印に西(絵図では上)に杉の木が植えられた。(松林の中の杉は目立つ。)遺灰や遺骨は「信康廟」(本殿裏(西。絵図では上。「清瀧寺并二俣村絵図」には「廟」とある)に収められた。

徳川家康に、大きな問題が2つ、のしかかってきた。1つは、築山殿、松平信康と相次ぐ自害で、岡崎が混乱し、永井直勝のように武士をやめる者や殉死する者が現れたことであり、もう1つは、北条氏と同盟を組んでしまったので、北条氏の要請で、「黄瀬川の戦い」に参戦しなければならなくなってしまったことである。
『浜松御在城記』には次のように記されている。

一、同月、北条より、朝比奈弥太郎を御使者にて、御詰の儀、御頼被遣候に付、御進発。同十八日、駿州二山御陣。十九日、持舟城、御攻被成候。廿五日には、遠州へ御帰陣也。
一、十月九日、浜松御城にて、今川氏真を御饗応被遊候。一説に、御扶持被進。当地にて御屋敷をも被進。夫を「御館」と申の由、伝承候。是又、正誤承合可申候事。一説に、上杉謙信との御和談の御取持は、氏真也と御ざ候。左様にも可有御座候哉。此書状、叶坊所に御座候。
【大意】 天正7月9月、北条氏から、旧今川家臣・朝比奈弥太郎を介して、援軍派遣依頼が来たので、徳川家康は、松平信康の死の2日後の9月17日に出陣した。翌日(9月18日)には駿河国に侵攻し、翌々日(9月19日)には、持舟城(用宗)を攻め、9月25日には、浜松城へ帰った。10月9日には、今川氏真を浜松城に呼んでもてなし、扶持(俸禄)や浜松城下の屋敷(通称:今川屋敷、御館)をプレゼントした。このおもてなしやプレゼントの理由は、北条氏との同盟の仲介だと思われるが、一説に、上杉謙信が生きている時代の上杉氏との同盟の仲介だという。(今川氏真からの(年不明)7月19日付上杉謙信宛の手紙が、叶坊(現・浜松秋葉神社)に残されていたが、太平洋戦争の浜松大空襲で焼失した。)

──家康、餌壺(えつぼ)に入ったり!(by 武田勝頼)

徳川家康が、織田信長を伴わずに単独で出陣したことを知った武田勝頼は、こう叫んだという。「徳川家康を倒すチャンス!」と、武田勝頼軍は、戦っていた北条軍を置き去りにして、徳川軍へ向けて進軍を始めた。これを聞いた徳川家康は、一気に浜松城まで撤退した。

──徳川勢、先刻引き払い、跡、寂々寥々として人影も見えず。(『改正三河後風土記』)

徳川家康の逃げ足は早く、武田勝頼は「此度、徳川を取り逃がしたる事、勝頼が運の尽き也」と言ったという。

「黄瀬川の戦い」は、結局、12月9日まで続いたが、徳川軍が戦ったのは、1週間に満たない。武田軍を東西から挟み撃ちしようと考えていた北条氏は不満であったろうが、築山殿と松平信康の死で士気が上がらなかった事や、岡崎城と浜松城の両城が城主不在という状況が徳川軍の早期撤退の背景にあったと想像される。(徳川家康は、北条氏との同盟締結で許された松平信康を二俣城から浜松城へ移して城主にし、織田信長の援軍を待って出陣して武田勝頼を討つつもりでいたのかもしれないが、そうはいかなかった。)

徳川家康は、「築山事件」「信康事件」で大混乱の岡崎衆を鎮めた。

──どうやって鎮めたのか?

①(井伊直虎が甚兵衛に「清風明月」と言った時のように)自分の気持ちを正直に語った。
②「駿河をとる」という「築山殿の夢」に悲しみや怒りの矛先を変えた。
③「武田」という浜松衆と岡崎衆の共通の敵を設定して、両者の結束を固めた。

①は、ドラマ的には「井伊万千代の入れ知恵」(井伊氏が今川氏にいじめられた時に乗り切った方法を、織田氏にいじめられている徳川氏に伝授)。②は、「築山殿の死を無題にしないために」と、徳川家康が考えたっぽい。

──こうして徳川の総力を挙げての「高天神城の戦い」が始まった。

「松平信康自害」は天正7年(1579年)9月15日で、「高天神城の戦い」は天正9年(1581)3月22日であるから、「駿河とるぞ~! まずは高天神じゃぁ~!」ではなく、「駿河に入るぞ~! 敵は黄瀬川にあり!」だと思うが・・・史実では、松平信康の自害の2日後の9月17日に出陣し、3日後の9月18日には駿河国に侵攻している。ちなみに、『浜松御在城記』では、「高天神城の戦い」(の準備)は、天正8年(1580年)3月に大坂山と中村に付城を築いた事に始まるとする。

高天神城のジオラマ。川が2本ある。「伊賀曲輪」には、20人程、伊賀者(忍者)が住んでいたという。(袋井市郷土資料館)

高天神城は、難攻不落の城である。

徳川家康が考えた「高天神城の戦い」の作戦は、「二俣城攻め」と同じ「兵糧攻め」」であった。これは、城の周囲に砦を築いて包囲し、外部からの食料の搬入を阻止するというものである。この「兵糧攻め」」と並行して行われたのが、「金掘り攻め」(「坑道戦」とも)であった。これは、トンネルを掘り、目標の地下へ到達すると、大量の爆薬を運び込んで爆破することにより、①城内の水の手を切る、②廓を崩す、あるいは、③坑道から突撃部隊を送り込むという攻城法である。井伊万千代が行ったのは、城内の水の手を切ることであり、それを間諜(間者、スパイ)にやらせたという。

・『寛政重修諸家譜』「直政」に「九年三月、武田勢のこもれる遠江国高天神の城をせめたまふのとき、直政、間諜をして水の手を切落し、軍功をあらはす。」
・『井伊家系譜』「直政」に「三月、高天神城攻之節、直政以間諜用水を切落し候付、速致落城。且於大手坂中与左衛門曲輪致功名候。」

井伊万千代が、どのようにして水の手を切ったのか、具体的には分からない。そもそも、高天神城には、ジオラマ(写真3)にあるように、川が流れていたので、水の手を切るのは不可能だと思われる。また、ドラマでは、徳川軍が高天神城の井戸の位置が分からないとしていたが、武田勝頼が高天神城を開城させた時の城兵は、武田方と徳川方に分かれているので、徳川方に属した旧・城兵に聞けば、井戸の位置など、城の様子が詳細に分かるはずである。

藤長庚『遠江古蹟圖繪』(享和3年(1803))に「山の中腹に穴一つ有り。穴の口狭く、深さ五、六間。次第に下へ掘りて行き止まる。軍の時、水を断ちし穴と云ひ伝ふ。」とあるが、水抜き穴は、下へは掘らない(水が流れ出るように上へ掘る)から、この横穴は、「大河内政局の石牢」の事だと思われる。水抜き穴だとしても、この横穴は山頂付近にあり、外部の人間が城内に入り込んで掘るのは、位置的に不可能である。内部に送り込んだ間諜に掘らせたわけで、その穴を掘らせる間諜を、「竜宮小僧」の呼称で見破ったというアイディアは面白い。

竜宮小僧のパンフレット(浜松市が2017年10月に作成)

高天神城は難攻不落の城である。打ち出さなければ負けない。

城兵が打ち出たのは3月22日なので、井伊万千代が水の手を切ったのが「3月」という事は、この1~21日前となる。打ち出さなければならない理由を作ったのが、井伊万千代による飲料水の遮断であれば、それは、それは大きな功績といえよう。(通説では、「飲料水がなくなったから」ではなく、「食料がなくなったから」打ち出たとする。)

ドラマでは、この水の手を切った功績により、2万石に加増されたとするが、下記『井伊家伝記』「直政公御立身之事」によれば、井伊万千代領が2万石に加増されたのは、「高天神城の戦い」の1年前の天正8年(1580)で、この時、今川氏真の家臣・朝比奈氏や、武田信玄の家臣・山縣氏に井伊谷が蹂躙された時に逃げて帰農したり、山中に隠れたりしていた旧・井伊家家臣がどこからともなく集まってきて、井伊万千代の家臣になったという。(もちろん、井嶋氏(井伊重子(井伊12代道政の娘)と宗良親王の娘・桜子姫の子孫)のように姓を「井嶋」に変えて、逃亡先に土着し、井伊谷へ帰らなかった人達もいる。)

【原文】 直政公、御奉公、日夜御勤労忠節異代故、拾ハ之御歳ニ壱万石御加増被成候。又、廿歳之節、弐万石ニ被仰付候。因茲、中野越後守、奥山六左衛門を初、其外、井伊谷譜代之家頼、山中ニ引込居申候、皆々罷出、御奉公申候。就中、奥山六左衛門弟・祖閑と申候て、出家仕候所ニ、直政公、還俗被仰付、知行千石被下候。(後略)
【大意】 直政公は、昼夜を問わず勤勉に働き、徳川家康公に対する忠誠心も人一倍強かったので、18歳の時に1万石、20歳の時に2万石に加増された。これにより、中野直之、奥山朝忠をはじめ、その他、「井伊谷譜代の家来」(井伊氏が井伊谷を本拠地にしていた時の家来)が、山の中に隠れ住んでいたが、皆、出てきて、井伊直政の家臣となった。就中(なかんずく)、奥山朝忠の弟は、「祖閑」と名乗って、出家していたが、井伊直政公は、還俗させ、1000石をお与えになられた。

酒井忠次「水野殿。もうしばしで、高天神を落としてお見せ出来ますかと…」
水野忠重「『徳川は降伏を受け入れてはならぬ。高天神は、最後は、力攻めで落とすように』と織田様のお指図でござる」
石川数正「何故、何故、『下る』と言うておる者を攻め滅ばせねばならぬ!?」
本多忠勝「そうじゃ! 戦うばかりが能ではあるまい!」
水野忠重「不服とあらば、ここからは、織田が戦を代わってもよいが!」
徳川家康「『降伏は受け入れぬ』と我等から申し上げる」

丸石石垣の横須賀城(「高天神城攻め」の徳川本陣)

織田信長の使者は、水野忠重(徳川家康の生母・於大の方の弟。徳川家康の叔父)であった。自分の主君を「織田様」とは呼ばないとは思うが・・・それはいいとして、「松平信康を殺せ」「城兵の降伏を受け入れるな」と、まるで家臣に対するが如く、徳川家康に命令する織田信長って…。ドラマでは、理不尽さを強調したいのであろうが、説明不足である。

※水野忠重:兄・水野信元と共に織田信長に仕える。その後、兄・水野信元と不和になり、徳川家康に仕えた。兄・水野信元が、武田に内通したとして誅殺され、佐久間信盛が追放されると、刈谷城主となった。この時、再び織田信長の家臣になると、織田信忠に付けられたという。『信長公記』には、天正9年(1581)1月4日、水野監物(直盛)らと共に横須賀城の番手として派遣されたとある。「高天神城攻め」では軍監だったようで、織田信長に次々とこまめに報告書を送った。

この時の織田信長の考えは、
①武田勝頼が、高天神城の救援に出陣してくれば、討てば良い。
②武田勝頼が、高天神城の救援に出陣してこなければ、武田勝頼は信を失い、武田勝頼からの離反が進んで、近い将来の武田攻めに役立つ。
であった。

──信長という大将には、驚嘆すべき勘定高さがあった。(by 司馬遼太郎)

■史料:「水野忠重宛織田信長朱印状」(福山結城水野文書)

【原文】 切々注進状、被入精之段、別而祝着候。其付城中一段迷惑候躰、以矢文懇望候間、近々候歟。然者、命を於助者、最前者滝坂を相副、只今ハ小山をそへ、高天神共三ヶ所可渡之由、以是慥意心中令推量候。抑三城を請取、遠州内無残所申付、外聞実儀可然候歟。但、見及聞候躰ニ、以来小山を始取懸候共、武田四郎分際にてハ、重而も後巻成間敷候哉。以其両城をも可渡と申所、毛頭無疑候。其節ハ家康気遣、諸卒可辛労処、歎敷候共、信長一両年ニ、駿・甲へ可出勢候条、切所を越、長々敷弓矢を可取事、外聞口惜候。所詮、号「後巻」、敵彼境目へ打出候ハゝ、手間不入、実否を可付候。然時者、両国を手間不入、申付候。自然「後巻」を不構、高天神同前ニ小山・滝坂見捨候へハ、以其響駿州之端々小城仰候事、不候。以来気遣候共、只今苦労候共、両条のつもりハ分別難弁候間、此通家康ニ物語、家中之宿老共にも申聞談合尤候。これハ信長思寄心底を不残申送者也。
正月廿五日   信長(「天下布武」朱印)
水野宗兵衛とのへ

【要旨】
①高天神城の守将(城主)・岡部から「降伏する」という矢文が届いた。降伏条件は、助命で、そのお礼に3城(高天神城、小山城、滝堺城)を開城というものであった。
②戦いのピークは近く、今後の戦い方は、武田勝頼による高天神城の「後巻」(武田勝頼が数万の援軍を率いて、高天神城を取り巻いている徳川軍をさらに取り巻く逆包囲であるが、ここでは「後詰」(救援行動)の意)があるかないかで異なる。
③武田勝頼による高天神城の「後巻」があれば、まずは、清州城の織田信忠が出陣する。(そうでなくても、私(織田信長)は、2年以内には出陣するが、安土から延々と敵国(駿河国、甲斐国)まで行かなくても、相手が来てくれるのなら楽だ。)
④武田勝頼による高天神城の「後巻」がなければ、「武田勝頼は薄情だ」という噂が駿河国に広まり、戦いやすくなる。(武田を離れる者が出て、駿河国が今より楽に手に入る。)
⑤降伏を受け入れず、様子(武田勝頼の動向)を見守るように。ちなみに、私(織田信長)は、武田勝頼による高天神城の「後巻」は「無い」と思っている(が、噂はあるので、念のために織田信忠を清州城に置いた)。

「正月三日、武田四郎勝頼、遠州高天神の城後巻として、甲斐・信濃一揆を催し、罷り出づるの由、風説に付きて、岐阜中将信忠卿、御馬を出だされ、尾州清洲の城に御居陣なり。正月四日、横須賀の城御番手として、水野監物、水野宗兵衛、大野衆、三首指し遣はさる。」(『信長公記』(巻十四)天正九年辛巳)

※徳川家康の城(本陣)である横須賀城に、織田信長が「城御番手」を遣わしたというのは、織田信長が「遠江国は織田領国、徳川家康は織田家家臣」と認識していた証拠だとする学者がおられるが、上記「水野忠重宛織田信長朱印状」では、徳川家康に対して、ドラマのように、まるで家臣であるかのように命令はせず、自分の「降伏拒絶」という意見を伝え、作戦の決定は、徳川家康の軍議でとしている。ここでいう「番手」(番手衆、在番衆)は、「城番」と言うより、単なる「援軍」(人数不足を補う加番)ということであろう。

さて、我らが主人公・井伊直虎が、「愛しき者を奪われ、誇りを奪われた者たちが、果たして従い続けようと思うものでしょうか?」「織田信長の『布武』というのは、真の『天下布武』とはならぬように…私には…」と予言した。「私」ではなく、「我」だろうけど、それは良いとして、「布武天下」ではなく、「天下布武」であるからダメだと指摘すると、南渓和尚は、方広寺の法要で聞いた、毛利の重鎮・安国寺恵瓊の「高転びに仰(あお)のけに転(ころ)ばれ候ずると見え申し候」という言葉を思い出した。

(つづく)

 

今回の言葉 「高転びに、仰のけに転ばれ候ずると見え申し候。」

【出典】 「安国寺恵瓊自筆書状」(天正元年(1573)12月12日付 山縣越前守・井上春忠宛書状。吉川家文書)

一筆申上候。京都之儀如形相調、今日十二、至備前岡山罷着候。尤其表雖可參候。長途之儀候之間、先吉田江罷下候。殊更自信長大事之馬被差下、輝元江被進候之間、片時茂急申候。
一 上意御歸洛御操之事、我等京着之翌日、羽柴藤吉郎、日乘、我等差下被申操候之處、上意之御事、人質を能々御取可多め候ハてハと被仰候。人質之儀者、進上申間敷之由、藤吉ハ申候。それ尓て一日相支候之處、羽藤何と分別申候哉、さやう上意丹て、底まて御甘奈く候者、一大事之儀候間、堂々行方志ら春に見え不申之由、信長ヘハ可申候之粂、早々何方へも御忍可然之由申候て、翌日大坂まて罷歸候。我等目乘をハ一日ニ跡ニ殘置候て、一往之御異見可申上之由申候粂、一と越り御異見申上候へ共、いら丹も御くつろきなく候間、是まてハ藝州よりも申操候、上意之所強而申上茂如何候。さて此上丹て、自然西國奈とへ御下向候てハ、可爲御一大事候。能々此御納得承すへ候て、可罷下候と申上候之處、西國へも唯今之分者多と御下向有間敷候。紀州ニ可有御逗留之由候条、今度御退座之御音信進納仕、御返事取候て、京都江罷上候。公方様ハ上下廿人之内外丹て、小船ニ被召候て、紀州宮崎之浦と申所へ御忍候。信長茂只々討果可申丹ても無之候間、彼所ニ可有御逗留候。先々此國江御下向奈き事をハ、膸分申究候。可御心安候。
一 阿州三吉許容有間敷之由、朱印相調申候。
一 但州之儀、來二月ニ、羽柴藤吉爲大將亂入之議定候。只今茂半國程ハ羽藤江申通候。御推量よりも、二月之行春やく、可被申付候國茂則時ニ可相果候。是もケ粂ニ被載、何と侘言候共、許容有間敷之由候。
一 山中鹿介、柴田ニ付候て、種々申分共候。是又、志可と許容有間敷之由、朱印被出候。
一 播州廣瀬之事。雑掌付置候之間、雖不被仰聞候。ケ粂ニ載候て披露仕、是も放状調申候。左候粂、今日直家と面談仕、來春先廣瀬江被取懸候へと申事尓候。内々直家も其望ニて候条、被表江可被向之由、令約諾候。右被仰聞候条々、多分此と茂り可と存候。今度信長機嫌一段よく候。上ミ下之間ニテ少々緩怠人も候ハゝ、春ミ合則時可申付之由候。今度宗景使者同道仕候。藤吉郎一段之申さ満共尓て候。彼使も大あせ越可き申候。い多ゝき尓大屋いとうすゑ多るやう尓候て、目出候。左候条、其口御行、來春御延引候てハ不可然候。此御分別専一候。
一 備播作之朱印、宗景江被出候。是も對藝州進之由、事外之口納ニて候。
一 別所宗景間之儀も、當時持候と相定候。別所も自身罷上候。一ッ座敷尓て両方江被申渡候。宗景江三ケ國之朱印之札、従夕庵過分二申懸候。お可しく候。
一 目乘者し里舞異見者、昔之周公旦、大公望なとのことくに候。似合多る者出合多る御事尓て候。雖然、仕すこされ候ハて、今之分尓て候へ春、藝州之御多め重實こて候。今度之調も、悉皆彼仁馳走ニて候。堂々あふ
奈く存候(存候)。藤吉郎との取次まて日乘ニて候。是尓て可有御推量候。
一 若宮様、御け奈りけ尓候。信長宿ニ置被申候。來春者御礼御申候て可然之由候。但、過分之御礼、信長へも、若君へも御無用之由候。折々す多らす御申候て、御無音奈きやう尓との、信長直々被申事候。
一 今度三好左京大夫内衆なり可王り候て腹を切候。代々如此候と申候可、佐りとてハの腹を仕候と申候。
一 河内高屋之城、由佐と四國衆、楯籠候。相城被取付候。其人数打入候者、信長も歸國之由候。定而可爲此比候。
一 信長之代五年三年者可被持候。明年邊者、公家奈とに可被成候可と見及申候。左候て後、高ころひ尓あ越のけ尓ころ者れ候春ると見え申候。藤吉郎佐りとてハの者ニて候。面上之時、万々可申上候。
明日十三、吉田へ罷下候。自吉田、万々可申上候。此由得貴意候。恐惶謹言。
十二月十二日               惠瓊(花押)
山縣越前守殿
井上又右衛門尉殿

【解説】

安国寺恵瓊(あんこくじえけい)は、戦国時代の(南渓和尚同様)臨済宗の僧。使僧、軍師。毛利家に仕える外交僧として、豊臣秀吉との交渉窓口となった。
天正元年8月末、毛利輝元は、羽柴秀吉(天正14年(1586)9月9日以降は豊臣秀吉)に書状を出し、「織田信長によって京都を追放されて毛利家の所領にいる将軍・足利義昭が、京都に帰れるように、羽柴秀吉から織田信長に頼んで欲しい」と伝えた。この要請に対し、羽柴秀吉は、9月7日付で、毛利輝元に、「了解。使者を送って下さい」と返事を出すと、11月、毛利家の使者・安国寺恵瓊が上京してきて、織田側の使者(羽柴秀吉と朝山日乗)と足利義昭の処遇についての直接交渉が行われた。その交渉の報告を毛利家家臣にしたのが、上記の「安国寺恵瓊自筆書状」である。12項目に及ぶ長文だが、有名なのは最後の項目である。

「信長の代、五年、三年は持ちたるべく候。明年辺りは、公家などに成さるべく候かと見え及び申し候。左候て後、高ころびにあをのけにころばれ候ずると見え申し候。藤吉郎、さりとてハの者にて候。面上の時、万々申し上ぐべく候。」

通常は、「織田信長の全盛期は、あと3~5年でしょう。近いうちに(授位されて)公家になるかもしれません。しかし、その後、『高転びで、仰のけに転ぶ』(高い位置まで登り詰めるが、仰け反って、背中から落ちる)ように思われました。藤吉郎(羽柴秀吉)は、ひとかどの人物だと思います。詳しくは、お会いした時にお話し致します。」と訳し、安国寺恵瓊を「『本能寺の変』を予言した人物」「豊臣秀吉が天下人になると予言した人物」と賞賛する。

※刑事ドラマで、ビルの屋上から人を突き落とすと、背中から落ちて、死体が地面に仰向けで横たわっている(「高きで転びて、仰のけに落つ」)のですが、
──『織田が高転びに転ぶ」』? 誰かに梯子をはずされるという事ですか?(by 井伊直虎)
梯子を使って高くまで登ると、揺らされて、梯子を両手で持ったまま、背中から倒れるという解釈か?

「本能寺の変」の予言かどうかは別として、織田信長の人物評の「高転びに仰のけに転ぶ」の訳は、「高い場所で転んで、背中から落ちる(全盛期を過ぎれば、後は落ちるだけ)」でまぁいいとして、藤吉郎(羽柴秀吉)の人物評「藤吉郎、さりとてハの者にて候」の解釈には、次の3説がある。

「然(さ)りとては」を辞書(松村明監修『大辞泉』(小学館))で調べると、
①そうであっても。そうはいっても。
②(感動・強調の気持ちを込めて)まったく。これはまた。
とある。それで、
説①(通説):「『さりとては』の者にて候」と読み、「藤吉郎は、『さりとては(おっ、この人は!)』と思わせる、なかなかの人物である」と訳す。
説②:「さりとて『八の者』にて候」と読み、「八の者」は「下賤の者」(ワタリ、忍者、など)の意として、「藤吉郎は、しかしながら、織田信長とは異なり、下層の出であるから、公家にも、天下人にも、なれないであろう」と訳す。
説③:「さりとて『八の者』にて候」と読み、「八の者」は「尾張人」の意として、「とはいえ、藤吉郎も、これまた驚くべきことに、織田信長と同じく尾張国出身の人物である」と訳す。

名古屋といえば、「八マーク」

「八の者」が「尾張人(名古屋人)」の意の隠語であるかどうかは不明だが、「八マーク」(通称「まるはち」)については、名古屋市は、尾張徳川家の合印だとしている。さらに、なぜ「丸に八の字」が尾張徳川家の合印になったかについては、次の4説があるとしている。
説①:尾張八郡の「八」(郡の数であり、開拓神・天火明命が乗ってきた八岐大蛇の頭の数)に由来する。
説②:尾張の片仮名表記である「オハリ」の「ハ」に由来する。
説③:尾張藩士・安部八兵衛が常用していた提灯の「八」の字に由来する。
説④:清和源氏の流れを汲む尾張藩が、先祖・八幡太郎義家の定紋である「向い鳩」を型どり、「丸に八の字」の紋を作ったことに由来する。

■参照:名古屋市公式ウェブサイト「ご存知ですか?八マーク」

※「安国寺恵瓊自筆書状」の字は美しく、古文書としては読みやすい部類に属する。問題の字であるが、私には「ハ」としか見えない。「八」には見えないので、説①を支持する。

 

キーワード:『信長公記』「高天神干殺し歴々討死の事」

「高天神干殺し歴々討死の事」

三月廿五日、亥の剋、遠江国高天神籠城の者、過半餓死に及び、残党こぼれ落ち、柵木を引き破り、罷り出で侯を、爰かしこにて相戦ひ、家康公御人数として、討ち捕る頸の注文、
百参十八、鈴木喜三郎・鈴木越中守。
拾五、水野国松。
十八、本田作左衛門。
七ツ、内藤三左衛門。
六ツ、菅沼次郎右衛門。
五ツ、三宅宗右衛門。
弐拾一、本田彦次郎。
七ツ、戸田三郎左衛門。
五ツ、本田庄左衛門。
四拾弐、酒井左衛門尉。
拾六、石川長門守。
百七十七、大須賀五郎左衛門。
四拾、石川伯耆守。
拾、松平上野守。
弐拾弐、本田平八郎。
六ツ、上村庄右衛門。
六拾四、大久保七郎右衛門。
四拾一、榊原小平太。
拾九、鳥井彦右衛門。
拾参、松平督。
一ツ、松平玄蕃允。
一ツ、久野三郎左衛門。
一ツ、牧野菅八郎。
一ツ、岩瀬清介。
ニツ、近藤平右衛門。
頸数六百八十八。
右の内、惣頭の頸の注文、
駿河先方衆。
岡部丹波守、三浦右近、森川備前守、朶石和泉守、朝比奈弥太郎、進藤与兵衛、油比可兵衛、油比藤大夫、岡部帯刀、松尾若狭守、名郷源太、武藤刑部丞、六笠彦三郎、神応但馬守、安西平右衛門、安西八郎兵衛、三浦雅楽助。
栗田内左右の者、信濃衆。
栗田刑部丞、栗田彦兵衛、同弟二人、勝俣主税助、櫛木庄左衛門、水島、山上備後守、和根川雅楽助。
大戸内、長共。
大戸丹後守、浦野右衛門、江戸右馬丞。
横田内、長共。
土橋五郎兵衛尉、福島本目助。
与田能登守内、長共。
与田美濃守、与田木工左衛門、与田部兵衛、大子原、川三蔵、江戸力助。
以上。
武田四郎、御武篇に恐れ、眼前に甲斐・信濃・駿河三ケ国にて、歴々の者、上下其の数を知らず、高天神にて干殺にさせ、後巻仕らず、天下の面目を失ひ侯。 ※干殺=餓死
信長公の御威光とは申しながら、家康公未だ壮年に及ばれざる以前に、三川国端に、土呂、佐座喜・鷲塚とて、海手へ付けて然るべき要害、富責にして、人多き湊なり。大坂より代坊主入れ置き、門徒繁昌侯て、既に国中過半、門家になるなり。無二に彼の一揆御退治なさるべきの御存分にて、年月を経、御退屈なく、爰かしこにて、御自身、数ケ度の御戦をなされ、御高名度々、其の数を知らず。一度も不覚これなく、終に御本意を達せられ、一国平均に仰せ付けられ、年来の御辛労、御名誉、勝て計ふべからず。此の後、遠州身方ケ原において、武田信玄と打ち向かひ、御合戦。又、武田四郎と長篠御合戦。何れも何れも、御手柄一方ならぬ御事なり。併せて、御武徳両道御達者、御冥加申すに足らず。

以上、『信長公記』では、首を討ち取った人の名、討ち取られた惣頭の名を挙げると、突然、徳川家康の賛辞が始まります。

徳川家康の略歴を、三河一向一揆の鎮圧から紹介し、「御武徳両道御達者」と褒めています。

「高天神城の戦い」での戦死者の墓「千人塚」

※武田勝頼は、武田信玄が落とせなかった高天神城を落として、その名を高めた。しかし、今回、「後巻仕らず、天下の面目を失ひ侯」(救援しなかったので、信を失った。城兵をドラマでは「武田」と呼んでいたが、実際は「駿河先方衆」(旧・今川家家臣)が中心であったので、「武田は甲州衆は大切にしても、寝返った者たちは粗末に扱う(救援はしない)」という悪評が広まった)。その一方で、高天神城を落とした徳川家康の名は高まった。

※徳川軍は688もの首を取り、1人でも取れば名が載ったのに、井伊万千代の名がない(><;) ずっと徳川家康の横にいた?

 

キーワード:武田勝頼

武田勝頼は、「長篠の戦い」の敗戦後、武田軍を再生させたが、「御館の乱」(上杉謙信死後の上杉家の家督争い)に関与しての失策から、甲相同盟が破綻し、武田家滅亡への道を歩むことになる。そして、天正10年3月11日(1582年4月3日)巳の刻(午前11時頃)、天目山において、武田勝頼&信勝父子が自害し、武田家は滅亡した。
『信長公記』によると、武田勝頼&信勝親子の首は、滝川一益から織田信忠へ渡され、さらに関&桑原に渡され、自害3日後の3月14日、織田信長が浪合(写真8)で首実検をした後、飯田で晒し、さらに、京都でも晒されたという。

武田勝頼・信勝父子の「首検分の処」(浪合)

「三月十一日、巳の刻、各相伴、討苑なり。四郎父子の頸、滝川左近かたより三位中将信忠卿へ御目に懸けられ侯のところに、関可平次、桑原助六両人にもたせ、信長公へ御進上候。(中略)十四日、平谷を打ち越え、なみあひに御陣取り、爰にて、武田四郎父子の頸、関与兵衛・桑原介六、もたせ参り、御目に懸けら侯。則ち、矢部善七郎に、仰せつけられ、飯田へ持たせ遣はさる。十五日午の刻より雨つよく降り、其の日、飯田に御陣を懸けさせられ、四郎父子の頸、飯田に懸けおかれ、上下見物侯。(中略)三月十六日、飯田御逗留の時、典厩の首、信長公へ御目に懸けられ侯。仁科五郎乗り侯秘蔵の蘆毛馬、武田四郎乗馬大鹿毛、是れ又、進められ侯ところ、大鹿毛は、三位中将信忠卿へ参らせられ、武田四郎勝頼最後にされたる刀、滝川左近かたより、信長公へ上申され侯。使に、祗侯の稲田九蔵に御小袖下され、忝き次第なり。武田四郎、同太郎、武田典厩、仁科五郎四人の首、長谷川宗仁に仰せつけられ、京都へ上せ、獄門に懸けらるべきの由侯て、御上京侯なり。」(『信長公記』巻15)

武田氏の滅亡は天正10年。「本能寺の変」も天正10年。
そして、井伊直虎の死も天正10年。
ドラマも、この連載記事も、残すところ、あと3回 。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

主要キャラの史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

-井伊家を訪ねて

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