追平陶吉作「織田信長」

井伊家を訪ねて

ナゾ多き松平信康の切腹事件~内通、対立、分裂、策略等の主要5説を徹底検証せよ!

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皆様、既に御存知のように、徳川家康の正室・築山殿と嫡男・松平信康は、第六天魔王・織田信長への生贄として殺害、あるいは、自害の強要をされました。
その理由や経緯については諸説あってよく分かりません。

古文書を読むと、「築山殿(瀬名姫)&松平信康母子が武田方に寝返った(から殺害指示をするのは当然)」と織田信長を擁護する書き方や、「松平信康は気性が荒く、築山殿は悪女(だから殺害されて当然)」と徳川家康を擁護する書き方をしていて、実際もそうであったのか、執筆時は、恐れ多くて真実が書けない時代であったので、そういう記述になったのか、分かりません。

頼りになる第一級史料『信長公記』(巻12)「天正7年」の徳川家関連記事は、ただ、

──七月十六日、家康公より、坂井左衛門尉御使として、御馬進めらる。奥平九八郎・坂井左衛門尉両人も、御馬進上なり。
7月16日、徳川家康が酒井忠次を使者として馬を贈ってきた。奥平信昌と酒井忠次の2人も馬を贈った。

とあるだけで、築山殿&松平信康母子の事はもちろん、織田信長の娘・徳姫の事すら書かれていません。

──なぜ、徳川家康、酒井忠次、奥平信昌の3人が織田信長に馬を贈ったのか?

何かあって織田信長が要求したのか、それとも徳川家康が何かの謝罪に、あるいは、何か頼み事があって贈ったのか? (通説は、ドラマの通り、天正4年1月に築城を開始し、天正7年に完成した安土城の落成記念です。)
8月8日に、徳川家康が、織田信長の近習・堀秀政に出した書状には次のようにあります。

【原文】 今度、左衛門尉を以申上候處、種〃御懇之儀、其段御取成故候。忝意存候、仍、三郎、不覚悟付而、去四日岡崎を追出申候。猶其趣、小栗大六、成瀬藤八可申入候。恐々謹言。
八月八日   家康(判)
堀久太郎殿
【書き下し文】 今度、酒井忠次を以って申し上げ候処、種々御懇(ねんごろ)の儀、其の段、御取り成(おとりなし)故に候。忝く意(おも)い存じ候。仍って、信康不覚悟に付き而(て)、去る四日、岡崎を追い出し申し候。猶、其の趣、小栗重常、成瀬藤八郎国次、申し入れるべき候。恐れ、恐れ謹言す。
八月八日   家康(判)
堀秀政殿
【大意】 今回、私(徳川家康)が、酒井忠次を使者として、織田信長へ派遣した時の織田信長の様々なお心遣いは、その時のあなた様(堀秀政)のお取り成しの成果であり、忝(かたじけな)く思います。それで、松平信康は「不覚悟」だったので、先日(8月4日)、岡崎城から追い出して、大浜城に蟄居させました。なお、事の詳細は、この書状を持って行く小栗重常と成瀬国次が申し上げます。

徳川家康が、安土城落成記念にと、織田信長に馬を献上すると、その時の使者・酒井忠次に、突然、織田信長が、松平信康について質問してきたので、酒井忠次がうろたえていると、堀秀政が「この者では即答(決断)できない内容なので、一旦、浜松へ持ちかえっていただいて、徳川家康に任せましょう」とフォロー(口添え)してくれたのでしょう。
それで、織田信長は、「では、徳川家康に任せる」と言って、その場をおさめたのでしょう。
そして、その件については、「まずは不覚悟な松平信康を岡崎城から追い出しました」と報告したのでしょう。

それにしても、「不覚悟」(悟り覚えず)とは、どういう意味なのでしょうか?

辞書には、「①覚悟ができていないこと。②油断して失敗を招いたこと。不覚。」とあります。
①「覚悟」とは、「切腹の覚悟」であり、「切腹しなかったので、大浜城に幽閉した」ということでしょうか? それとも、②「不覚」「不注意」であり、「武田関係者の娘を側室にして、武田と内通していると思われてしまったこと」でしょうか? だとしたら、井伊直親が徳川と内通したと判断されて、今川に誅殺された状況と似てるかも? 井伊家の経験談が徳川家に役立つかも?

──聞いてはおったが、徳川の織田への気の遣いようは尋常ではないな。何やら、井伊が今川にへいこらしていたのを思い出すの。(by 井伊万千代)

ここで、もう1つの第一級史料である松平家忠(深溝松平第4代宗主)が書いた『家忠日記』を召喚します。

【原文】 『家忠日記』(8月1日~9月16日)

八月大
一日甲戌 大雨ふる。家中衆、礼ニ被越候。
二日乙亥 夜迄雨降。奈可う堤、きれ候。松平喜平所ニ月次連歌候。
發句  正佐作 亭し由
露尓香は こ本れぬや程 萩可花
三日丙子 濱松ゟ家康、岡崎江被越候。
四日丁丑 夜より雨降。御親子被仰様候て、信康大濱江御退候。
五日戊刀 夜より雨降。岡崎江越候へハ、自家康、早々弓・て川者うの衆つ連候て、西尾江越候へ被仰候て、尓しをへ越候。家康も西尾へ被移候。會下ニ陣取候。北端城番ニあ可り候。
七日庚辰 午時迄雨降。家康、岡崎江被越候。本城御番・松平上野、榊原小平太、北端城御番・松平玄番、鵜殿八郎三郎、両、三人也。善五左衛門所ニ陣取候。玄番、八郎三郎、ふる舞候。平岩七之助所より大鷹兄弟あつ可り候。
八日辛巳 榊原小平太、松平上野、同玄番、鵜八郎三郎、ふる舞候。
九日壬午 勘解由、岡崎大澤、石川伯耆さへもんへ越候。被仰小性衆五人、信康、大濱より遠州堀江城江被越候。
十日癸未 自家康、岡崎江越候へ由、鵜殿善六郞御使尓て岡崎江越候。各國衆、信康江内音信申間敷候と、御城きしやう文候。
十一日甲申 ふ可ミ春へ可へり候。かまやつくらせ候。
十二日乙酉 會下へ参り候。家康、濱松へ御かへり候。鵜殿善六被越候。岡崎城ニ者、本田作左衛門御留守候。
十三日丙戌 (記事なし)
十四日丁亥 卯刻ニ雨降。
十五日戊子 本田作左所江音信候。吉田左衛門尉所より來十九日陣ふ連こし候。
十六日巳丑 卯刻より夜迄雨降。
十七日庚刀 京の茶湯者、宗音越候。平岩七之助所より預かり候多可とりに越候。
十八日辛卯 竹のや迄陣用意尓立候へハ、今度者先へ相延候由、酒井左衛門尉所より行寄越候て、帰候。
十九日壬辰 足助江漆可いニ人を越候。
廿日癸巳 子刻より雨降。
廿一日甲午 夜迄雨降。臺所勘定候。
廿二日乙未 酉刻より雨降。
廿三日丙申 同雨降。鉄放藥調合候。
廿四日丁酉 卯刻迄雨降。犬法、濱松へ可へり候。
廿五日戊戌 ひ可んに入。午時より雨降。會下へ参り候。
廿六日巳亥 同雨降。
廿七日庚子 同雨降。松平藤五郎月次連歌候。
發句    ていし由名多い正佐
いや満し能 花や露そふ 野への秋
廿八日辛丑 夜迄雨降り。會下へ参り候。
廿九日壬刀 (記事なし)
晦日癸卯 申刻ニ地震候。
九月小
一日甲辰 (記事なし)
二日乙巳 為牧野番日通ニ、濱松迄越候。家康御煩尓て、城江者いて候ハす候。王れ王れ所へ、松平玄蕃休庵被越候。
三日丙午 鵜殿善六所ニふる舞尓て、懸河迄越候。
四日丁未 牧野番ニ西郷孫九郎替候。松平周防所ニふる舞候。
五日戌申 定番衆ふる舞候。伊豆御あつ可い春み候て、朝伊奈弥太郎、昨日被越候由、濱松より申越候。
六日巳酉 東條衆、都筑助太夫所ニふる舞い候。
七日庚戌 東條衆、岡田権平所ニふる舞候。夕食、牛久保殿ニふる舞候。
八日辛亥 遍いふしん候。小笠原丹波所ニふる舞候。
九日壬子 未刻より夜迄雨降。家中・新二郎、各定番衆ふる舞候。
十日癸丑 同権兵尉、ふる舞、定番衆。
十一日甲刀 松平甚太郎所ニふる舞候。
十二日乙卯 (記事なし)
十三日丙辰 伊豆御噯弥相春ミ候て、来十七日ニ御手合之働候ハん由、者間末つより申来候。
十四日丁巳 定番衆ふる舞候。
十五日戌午 未刻より雨降。
十六日巳未 (記事なし)
(以下略)

【大意と解釈】

8月3日 徳川家康、浜松城から岡崎城へ来る。
8月4日 徳川家康&松平信康父子は話し合い、松平信康は、大浜城(碧南市音羽町)で、蟄居することに。(岡崎城には、石川数正を城代として置いた。)
8月5日 徳川家康の命令で、私(松平家忠)は、弓衆・鉄砲衆を連れて、西尾(西尾市満全町)へ行った。徳川家康も西尾へ来て、西尾山康全寺(満全寺。徳川家康から「康」の1字をおくられて康全寺に改称)の「会下」(えげ。禅宗などで、師の僧のもとで修行する所)に本陣を置き、私(松平家忠)は、北端城(碧南市羽根町)の城番に任命された。
8月7日 徳川家康が岡崎城へ行った。大浜に残された本城(大浜城)警備は、松平上野介、榊原小平太康昌の2人で、北端城警備は、松平主殿助家忠、松平玄番頭家清、鵜殿八郎三郎の3人である。
8月9日 松平信康は、大浜から旧今川家臣・大澤氏の居城・堀江城(浜松市西区舘山寺町堀江)に移された。
8月10日 徳川家康は、岡崎城に家臣(岡崎衆)を集め、松平信康へ荷担しないと誓う起請文を書かせた。
8月12日 徳川家康は浜松城へ帰った。岡崎城には、浜松から呼び寄せた本多重次を留守居役として置いた。

松平家忠(深溝松平第4代宗主)は、浜松衆ではなく、岡崎衆(西三河衆)ですので、岡崎の情勢については詳しいです。
そして、松平信康の件については、『家忠日記』から推し量るに、理由(わけ)の分からないまま、徳川家康の指示通り動いた感が強いです。

8月10日、徳川家康から説明があり、起請文にサインし、血判を捺すと、箝口令が敷かれたのか、松平信康については、口を閉ざします。
いつ堀江城から二俣城へ移されたのか、いつ二俣城で切腹したのか、この日記からは分かりません。

築山殿については、一言も書かれていません。築山殿が殺害された8月29日には日付以外、何も書かれていません。
そして、松平家忠が9月2日に浜松城へ行くと、徳川家康は、「御煩(わずらい)にて、城へは出で候わず候」(病気で登城していなかった)とあります。

正室を亡くして気を落としていた徳川家康を病魔が襲ったのでしょうか?
それとも、会うと、いろいろと説明しないといけないので、仮病を使っていたのでしょうか?

松平信康が自刃した9月15日の日記は「未刻より雨降」のみで、翌日(この時、松平家忠は、城番として牧野城(諏訪原城)に在城)の日記は日付だけで、何も書かれていません。

 

第45話 「魔王のいけにえ」 あらすじ

浜松と岡崎の間には壁があった。

①城主:徳川家康と築山殿&松平信康母子の確執
②家臣:浜松衆と岡崎衆の恩賞・宛行の差による不平・不満

そして、そこに付け込んだ「一に調略、二に調略」の武田勝頼は、「徳川家分断作戦」(大賀弥四郎のクーデター)を企てたが、未遂に終わった。

しかし、築山殿&松平信康母子が巻き込まれ、岡崎と安土との間にも壁が出来た。その安土との壁を崩す存在が、松平信康の嫁となった「平和の使者」徳姫(織田信長の娘)であるが、この嫁・徳姫は、なんと、なんと、父・織田信長に、「徳姫12ヶ条の弾劾文」を送ったのである。

7月16日、織田信長は、「徳川四天王」の酒井忠次(補佐に大久保忠世)を呼び、「徳姫12ヶ条の弾劾文」が事実である事を確認すると、娘婿・松平信康の切腹を要求した。織田信長は、「徳姫12ヶ条の弾劾文」にある愚痴ではなく、「武田氏との内通」が許せなかったのである。

──松平信康の切腹の原因は「徳姫12ヶ条の弾劾文」であり、切腹の指示は織田信長である

というのが、これまでの通説であった。

先に「『信長公記』には、信康について何も書かれていない」と書いたが、実は、その前身『安土日記』には書かれている。初めは信康の「逆心」(謀反)と書かれていたが、江戸初期に「不慮に狂乱」(突然、気が狂った)と書き直され、『信長公記』では消されたのである。

太田牛一は、織田信長の右筆であるので、最初は「織田信長は、謀反を起こした者の誅殺を命じた。織田信長は正しい」と織田信長の名誉を守るために書いたが、江戸時代に入って、徳川一族の批判はよくないと忖度し、「逆心」(意識的に謀反を起こした)を「不慮に狂乱」(突然、気が狂って、心ならずも謀反を起こしてしまった)に書き変え、最終的には削除したのである。

松平信康の謀反は事実で、「太田牛一は、ジャーナリストとして、嘘を書くくらいなら、書かない方が良いと考えて消した」のか、松平信康の謀反は虚構で、「再調査したら、松平信康の謀反は無かったことが分かったので消した」のか、どちらであろうか?

史料:『信長公記』関連諸本
・『安土日記』(前田本)の記述:「去程ニ、三州岡崎三郎殿、逆心之雑説申候。家康并年寄衆、上様へ対申無勿躰御心持不可然之旨、異見候て、八月四日ニ、三郎殿を国端へ追出し申候。」
・『安土日記』(和学講談所本)慶長15年(1610)2月の記述:「爰ニ、参州岡崎ノ三郎殿、不慮ニ狂乱スルニ付テ、遠州堀江ノ城ニ押籠、番ヲスヱ被置候。」
・『原本信長記』の記述:「爰ニ、三州岡崎の三郎殿、不慮ニ狂乱候ニ付、堀江之城ニ押籠、番ヲ居被置候。」
・『安土記』の記述:「三州岡崎三郎殿、不慮ニ狂乱卜云。遠州堀江城ニ、番ヲスヱ被置候由也。」
・『信長公記』:(記載なし)

──史実はどうだったのか?

『信長公記』には、7月16日に酒井忠次が安土城へ行ったとする記事は残された。この記事を残した意味とは?
そもそも、織田信長が、なぜ酒井忠次を呼んだのが解せない。
織田信長が呼ぶべきなのは、本人(松平信康)である。(井伊直満も直親も今川氏に駿府に呼ばれた。)

あるいは、徳川家康か、岡崎衆の重臣(松平信康の傅役である平岩親吉か石川数正)である。
(私なら、「完成した安土城を見せてあげる」という名目で徳姫を呼ぶな。)

使者が酒井忠次であることの意味を考えると、徳川家康の堀秀政宛の書状にもあるように、
──酒井忠次を指名したのは織田信長ではなく、徳川家康である。

徳川家康が安土城落成記念に馬を献上したら、タイミングよく(悪く?)徳姫から書状が届いていたので、その話になったのか?
それとも、徳姫からの書状は虚構であり、徳川家康側から「松平信康が謀反(武田氏と内通)を起こしました。あなたの娘婿ですが、斬ってもよろしいでしょうか?」とお伺いを立てたのか?
織田信長が殺害を指示(許可?)したのは、築山殿&松平信康母子のどちらか?

築山殿&松平信康母子殺害(「築山事件」「信康事件」)の原因には、次の説がある。

説①築山殿&松平信康母子が武田氏に内通(徳姫が父・織田信長に報告)
説②父・徳川家康と子・松平信康の対立(方針の相違)
説③徳川家臣団が岡崎派と浜松派、あるいは、三河衆が石川派と酒井派に分裂
説④織田信長による松平信康殺害、あるいは、徳川家康をテスト
説⑤於大の方による築山殿&松平信康母子殺害

説①は、築山殿&松平信康母子が敵(武田)と内通したから誅殺したとする説である。2人が武田と内通した理由を、①大賀弥四郎のように2人共、武田に調略された、あるいは、②武田氏と結んだ母・築山殿に子・松平信康が同調した(このドラマの築山殿は、母・佐名との誓い「駿河国をとる」に執着しているが、実際は、「(今川義元を倒した)織田信長を(自分は女なので、無理なので、誰かと手を組んで)倒す」に執着し、その「誰か」として夫・徳川家康に期待したが、夫・徳川家康は、こともあろうに織田信長と清洲同盟を結び、さらに息子・松平信康と織田信長の娘・徳姫と結婚させてしまったので、夫・徳川家康に失望し、武田氏に期待した。)とする。

説②は、徳川家康(織田派)が松平信康(武田派)を殺害しようとし、その前に織田信長にお伺いを立て、「好きにせよ」とお許しが出たので殺害したとする説である。これは、親今川の嫡男・武田義信を、反今川の武田信玄が、家臣団の分裂を危惧して殺したようなものだとする。

説③家臣団が岡崎派と浜松派の恩賞・宛行の差を不平・不満を感じて分裂し、岡崎派(松平信康派)と浜松派(徳川家康派)に分かれたので、徳川家康は、この分裂を鎮めようとして松平信康を大浜(碧南市)に幽閉すると、西尾市に出陣して、松平信康を奪還しようとする岡崎派の出陣に備えた。さらに8月10日、「松平信康に味方しない」「徳川家康に忠誠を誓う」という内容の起請文を書かせて、お家騒動を沈静化したとする。
また、「家臣団の分裂」とは、「信康派(岡崎) vs 家康派(浜松)」ではなく、「石川数正(西三河) vs 酒井忠次(東三河)」だとする説もあり、松平信康という後ろ盾をな くした石川数正は追い込まれて出奔したとする。

説④織田信長は、「徳川の行く末は安泰じゃのぉ」と、松平信康の才覚を認めたが、自分の息子よりも優れていると判断し、息子の代では織田と徳川の立場が逆転するのではないかと危惧した。ドラマでは、天目茶碗のプレゼントや、叙位など、松平信康を取り込もうとするが失敗し、「取り込めぬなら 殺してしまおう 十姉妹」と、そのチャンスを伺い、父の気持ちを忖度した娘・徳姫は、「平和の使者」から「スパイ」に変わったようだ。徳姫が、松平信康が側室をとったという報告や、「徳姫12ヶ条の弾劾文」を実父・織田信長ではなく、義父・徳川家康に送っていたら、悲劇は生まれなかったかもしれない。
また、織田信長が、徳川家康に「好きにせよ」と言ったとされるが、これは、徳川家康がどうするか見たいからであり、これは、徳川家康の忠誠心のテストだとする。

説⑤於大の方も酒井忠次も今川が嫌いであったので、意見が合い、2人で今川の血が流れる築山殿&松平信康母子を殺害しようと考え、徳姫を手なづけ、そのチャンスを伺っていたとする。ドラマの於大の方は、徳川家康に「私も兄を殺されたのだから、あなたも長男を殺しなさい。あなただけが逃れることはできません」と松平信康の殺害を勧めていた。

※天正3年12月27日(1576年1月27日)、織田方の武将・佐久間信盛の讒言(?)により、武田方に内通したとして、於大の方の兄・水野信元が、織田信長の命を受けた徳川家康によって殺害された。刺客は平岩親吉と石川数正で、この事件により、於大の方の夫(水野信元の義弟)・久松俊勝は、徳川家康を深く怨み、出奔したので、於大の方は、徳川家康に引き取られた。兄を殺された於大の方は、(関係者の内で岡崎城にいた)石川数正を恨み、これが今回の築山殿&松平信康母子殺害や、後の石川数正の出奔の遠因だという。
築山殿の両親は夫・徳川家康に殺されたようなものであるから、築山殿は、子・徳川家康に兄を殺された於大の方と仲良くできそうだが、徳川家康を共通の敵としての同盟締結(意気投合)は無理だな。

松平信康が幽閉された「大浜」は港町で、稱名寺や永井直勝が生まれた宝珠寺がある。
明応8年(1499)、飛鳥井雅康は、稱名寺のご本尊の前で次の歌を詠んでいる。時刻表を見なくても、次から次へとやってくる東京の地下鉄のように、大浜の次から次へと船がやってくる繁盛ぶりに驚いて詠んだのであろう。

大濱の波ぢわけぬと思ひしに はやかの岸に舟よせてけり
(大浜から船出しようと思ったら、既に連絡船は着岸していた。)

東一房従尼(東姫)の墓(稱名寺)

さて、結束が固いとされる三河武士であるが、今回が初めての内紛ではない。

初めての内紛は、『改正三河後風土記』で「暗愚にして残忍」と評された松平6代信忠(徳川家康の曽祖父)の時に起きた。「賞罰、更に定りなく、軍国の大事をば怠りはて給へば、御一族、御譜代の輩も心、区々になり」(『改正三河後風土記』)とある。宗主・松平信忠派と弟・桜井松平信定派に分かれての内紛に発展したが、松平信忠が、子・松平清康(徳川家康の祖父)に家督を譲り、大浜に隠居することでおさまった。(一説に「自主的な隠居」ではなく、「(不慮の狂乱による)強制的な幽閉」だという。いずれにせよ、遺恨は残り、松平清康の死後、松平信定は反乱を起こした。)
松平信忠の娘・東姫(東一房従尼)は、稱名寺へ移って父の世話をし、父の死後は菩提を弔いつつ、元亀元年(1570)、稱名寺で亡くなった。

松平信忠は、大浜で享禄4年(1531)に亡くなった。これは、松平信忠の父・松平長親(天文13年(1544)没)が亡くなる10年以上も前のことである。松平信康も、「大浜で蟄居」と聞いて、松平信忠のことが頭に浮かび、「逆心だの、乱心だのという名目で、大浜に幽閉され、松平信忠のように、父より早く死ぬのか?」と思ったかもしれない。ドラマでは「武田と内通したるかどにて、信康様を大浜城へ幽閉した上、死罪とすることとなった」と榊原康政が言っていたが、実際は、「幽閉する」であって、松平信康は、「このまま死ぬまで大浜暮らし」と思っていたのではないか? もし、徳川家康が松平信康を大浜に幽閉して、大浜から出さなかったら、「本能寺の変」直後の「神君伊賀越え」で、伊賀国を越えて伊勢国から船で大浜にたどりついた徳川家康一行は、松平信康を連れて、岡崎城へ入ったのではないか?

以上、諸説あるので、以下、ドラマストーリーに沿って考察を進めることにする。

天正6年(1578)2月、岡崎城の普請(対武田籠城戦用拡張工事)が終わって城が広くなると、3月、岡崎衆の岡崎城内常住と毎月1日の信康への出仕が義務付けられた。
これは、「徳川家康の後継者は、松平信康である」と宣言するようなもので、 4 月17日、松平信康は、浜松の徳川家康へお礼に行っている。

ところが、半年後の9月22日、突然、「岡崎在郷無用」となった。
これは、「後継者取り消し」という罰(「徳川信康」から「松平信康」「岡崎信康」へ)であり、その理由を、ドラマでは、「松平信康の側近(元小姓)・近藤兵助が徳川家康を暗殺しようとしたので」としている。

学者は、「岡崎在郷無用」の理由を、①徳川家康と松平信康の仲が悪くなり、岡崎城の守りを手薄にした(岡崎衆を松平信康から切り離した)のだとか、②松平信康が国衆に協力させるために取っていた人質(女房衆)を徳川家康が解放し、松平信康の弱体化を図ったのだと解釈している。

──学者も、脚本家も深読みし過ぎでは?

対武田籠城戦用拡張工事をし、城が広くなったので、家臣を城内に住まわせたものの、その必要はなくなった(武田は力が弱まり、美濃国から追い出されて岡崎侵攻の可能性が低くなった)という判断で、「家臣は、それぞれの領地に住み、毎月決まった日に登城する」という元のルールに戻しただけであろう。
ドラマでは、「岡崎在郷無用」を「罰」とし、家臣たちは「重すぎる」と嘆いたとしているが、「岡崎在郷無用」は、「城内住んだ方が便利と思って3月にルールを改正したものの、家臣から「改悪」という声が多かったので、半年後の9月に元のルールに戻した」のであって、家臣は皆、喜んだと思われる。

「岡崎在郷無用」は、国衆にとって、江戸時代で言えば、「江戸に屋敷を建て、女房衆を人質に置いて、参勤交代をする必要が無くなった」ようなものであり、財政負担が減った。
『家忠日記』の著者・松平家忠(深溝松平氏)は、早速、岡崎城内の屋敷をたたみ、本拠地・深溝(ふこうず、ふこうぞ、ふ可う春(ふかうす)。愛知県額田郡幸田町)へ、4日後の26日に女房衆、5日後の27日には本人がルンルン気分で引っ越している。

「深溝鳥屋(塒)にてハイタカ(鷂)の片替えり、泊まり候」(深溝の「鳥屋」(とや。鷹の羽が生え替わる時に籠る鳥小屋、ホテル)に「ハイタカ」(鷹狩に使う鷹には上中下のランクがあり、上はハイタカ、オオタカ、ツミ)の「片替えり」(「かた(片)」は1、「もろ(諸、両)」は2、「もろかた(諸片、両片)」は3であり、「替える」とは「羽が生え替わる」ことであるから、「片替えり」とは、「飼育を始めて1回羽が生え替わった鷹」「飼育2年目の鷹」、あるいは、「生後1年経った鷹」「1歳の鷹」のこと)が泊まっていた。)の1文からは、「これでもう暇を願い出て深溝に帰らなくても、いつでも鷹狩が出来るぞ!」というワクワク気分が感じられる。

史料:『家忠日記』(天正6年(1578)9月)
廿二日庚午 鵜殿八郎三郎、松平太郎左衛門こされ候。點取之誂諧候。戌刻ニ吉田左衛門所より、家康、各國衆、岡崎在郷之儀、無用之由、申來候。(※吉田左衛門=酒井忠次)
廿三日辛未 在郷ニ付、鵜殿八郎三郎、松平太郎左衛門、我等両三 人之所より、石川伯耆、平岩七之助所江使者をつ可ハし候へハ、早々在所江越候へ之由、申來候。
同廿四日壬申 さいく人こし候て、母衣の志ん作せ候。松平太郎左衛門殿、被越候て、拍子候。
同廿五日癸酉 丑刻より雨降。石川伯耆、平岩七之助所より在所へ越し候へ之由、申來候。
同廿六日甲戌 酉刻迄雨降。ふ可う春へ女とも引越候。王れら屋敷へ松平太郎左衛門、被越候て、誂諧候。
同廿七日乙亥 ふ可う春へ越し候。人足あらため越候。深溝とや尓て者い鷹の可多可へりとまり候。

※大賀弥四郎のクーデターは、「長篠の戦い」の直前である。「長篠の戦い」で徳川・織田連合軍が武田軍を討ち、織田信長が美濃国から武田軍を追い出すと(そのどさくさに紛れて水野信元らを誅殺して水野氏を滅亡させると)、「織田より武田の方が良い(強い)」と言う岡崎衆はいなくなったと思われる。この時、武田氏は、戦略を「合戦」から「調略」に転換し、織田・徳川方の武将を次々と調略し、織田・徳川は次々と粛清するという「イタチごっこ」が始まった。そんな状況の中で、徳川家康の人生で最大の悲劇が起きたのである。

天正7年4月7日、徳川家康の側室・於愛の方(西郷局)が、長丸(長松。後の2代将軍・徳川秀忠)を引馬の「御誕生屋敷」(樹木屋敷)で生んだ。(「徳川秀忠公誕生の井戸」(下の写真。浜松市中区常盤町)がある。また、ドラマでは、岡崎城にいるはずの於大の方が、孫の顔を見に来ていたのか、浜松城にいた。)

「徳川秀忠公誕生の井戸」(「誕生の井戸」と言うが、井伊共保のように井戸から生まれたのではない。「産湯の井戸」である。)

このドラマでは、どうも「築山殿の焦りが悲劇を生んだ」としたいようで、その「焦り」の1つは、徳姫が、娘を生んでも、息子を生んでいない「女子腹(おなごばら)」であったこととする。息子がいなければ、徳川家康の後継者が松平信康になっても、その松平信康の後継者は長丸になる可能性がある。

そこで、井伊直盛が、今川庶子家の娘と結婚したばかりに、今川に憚って側室をもうけず、結局、一人っ子の女子が「井伊直虎」と名乗って城主となり、苦労したことを知っている築山殿は、松平信康の側室を探すことにした。これは、織田信長に「お前の娘は女しか生めない出来損ないだ」と言うようなものであるから、松平信康は躊躇するが、母・築山殿には逆らえず、押し切られた。側室の件は、徳姫も承知したようで織田信長は「徳は夫思いじゃのぉ」と評した。

──それより、こちらに男子が生まれず、長丸とやらがそなたの後を継ぐなどとなっては、織田にとっても面白い話ではございますまい。(by 築山殿)

築山殿の本音は「私(正室、今川氏)も嫡男も生きているのに、側室をもうけるとは、今川が軽んじられた。では、私は、今川の姫として、織田を軽んじて、松平信康に側室をもうけさせる」という対抗意識、徳川や織田よりも今川は名門だとする名門意識だったのかもしれない。

松平信康の側室については、「昌時」「時昌」と似ているので、混乱が生じたのか、
説①:元武田家家臣・浅原昌時の娘(17歳?)
説②:武田家家臣・日向時昌の娘(28歳)
の2説がある。常識的に考えて、浅原昌時の娘(説①)であろうが、ドラマでは側室はこの2人としている。

浅原昌時の肩書の「元武田家家臣」というのはまずいと思われるが、築山殿の感覚は、「今は徳川家臣だから問題ない」であろう。なぜなら、娘・亀姫が、織田信長の指示で、武田方から徳川方に寝返ったばかりの奥平信昌と結婚させられたからだ。浅原昌時の妻は、築山殿(父・関口親永は養子で、実は瀬名氏)同様、瀬名氏の血が流れ、その娘は上品な顔立ちだったこともあり、築山殿は気に入って侍女にしていたという。

日向大和守是吉の子・日向大和守時昌は、武田氏滅亡(武田勝頼が亡くなった天正10年3月11日)の10日後の3月21日に所領・巨摩郡村山で自害した武田家臣である。

「武田家臣」の娘は、常識的に考えてまずいのであるが、築山殿を武田に内通した「悪女」とする古文書では、この説②を採用している。この女は、日向時昌の側室の娘で、正室の讒言により、日向家を追い出されて岡崎の大須賀屋吉兵衛に世話になっていた妖艶な美人であり、築山殿が買い取って松平信康の側室とすると、松平信康は、毎晩、この側室と同衾し、徳姫とは会わなくなったという。

以上、「築山事件」や「信康事件」の原因は、ドラマでは、「築山殿の焦り」と「力を付けてきて、織田にとって脅威となってきた徳川氏の嫡男を織田に取り込もうとしたが、取り込め無かったこと」とする。

ドラマの織田信長は、

──取り込めぬなら 殺してしまおう 十姉妹

と、可愛がっていた十姉妹を火縄銃で撃ち殺していた。(鳴き声は文鳥ぽかったけど、文鳥は嘴が赤い。)

(つづく)

 

今回の言葉「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」

【出典】 根岸鎮衛『耳嚢(「耳袋」とも)』(1814)、松浦静山『甲子夜話』(1821-1841)

【意味】 「三英傑」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。「戦国三傑」とも)の性格が良く表れた俳句(川柳)。(「ほととぎす」(時鳥、田長鳥、沓手鳥、妹背鳥、卯月鳥、杜鵑、杜宇杜魂、子規、不如帰)は夏の季語。)
織田信長「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」
豊臣秀吉「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」
徳川家康「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」

『耳袋』には、「三英傑」(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)が一同に会した時に詠んだ俳句(川柳)とされるが、定かではないとある。

『耳嚢(みみぶくろ)』(巻の八)「連歌その心自然に顯はるゝ事」

古物語にあるや、また人の作り事や、それは知らざれど、信長、秀吉、恐れながら神君御參會の時、卯月のころ、いまだ郭公を聞かずとの物語いでけるに、信長、
鳴かずんば殺してしまへ時鳥
とありしに、秀吉、
なかずともなかせて聞かう時鳥
とありしに、
なかぬならなく時聞かう時鳥
とあそばされしは神君の由。自然とその御德化の温順なる、又殘忍、廣量なる所、その自然をあらはしたるが、紹巴もその席にありて、
なかぬなら鳴かぬのもよし郭公
と吟じけるとや。

『甲子夜話(かっしやわ)』(五十三巻)

夜話のとき或人の云けるは、人の仮托に出る者ならんが、其人の情実に能く恊へりとなん。
郭公を贈り参せし人あり。されども鳴かざりければ、
なかぬなら殺してしまへ時鳥   織田右府
鳴かずともなかして見せふ杜鵑  豊 太 閤
なかぬなら鳴まで待よ郭公    大権現様
このあとに二首を添ふ。これ憚る所あるが上へ、固より仮托のことなれば、作家を記せず。
なかぬなら鳥屋へやれよほとゝぎす
なかぬなら貰て置けよほとゝぎす

 

キーワード:徳姫

松平信康と徳姫の間に生まれた長女の名は、「登久(とく)姫」です。母親と同じ名とは紛らわしいのですが、「徳姫」の名は、正確には「徳」(とく)ではなく、「五徳」(ごとく)です。茶道具の「五徳」(鉄瓶を乗せて湯を炭火で沸かす時に使う三脚、四脚)です。

岡崎三郎信康と徳姫(信康山清瀧寺(浜松市天竜区二俣町)にて)

弘治2年(1556)、清洲城主・織田信長(23歳)は、小折村(現在の愛知県江南市小折町)の土豪・生駒氏の娘・吉乃(吉野、類)と結婚すると、毎年続けて子を儲け、二男一女が誕生しました。
・弘治3年(1557)に長男・奇妙(きみょう、後の信忠)
・永禄元年(1558)に次男・茶筅(ちゃせん、後の信雄)
・永禄2年(1559)に長女・五徳(ごとく)
織田信長は、生まれた子を見て「奇妙だ」と言ったので「奇妙」。縛った髪(茶筅髷)が「茶筅」(抹茶を点てるのに使用する茶道具)に似ていたので「茶筅」。同様に、仰向けに寝てる赤ちゃんが四肢を上に突き上げた姿が、引っくり返した四脚の「五徳」に似ていたから「五徳」と思いきや、初対面の時、側に五徳が置いてあったから「五徳」なのだとか。

さて、徳姫が父・織田信長に出した「徳姫12ヶ条の弾劾文」は、現存しないので、復元を試みると…

①姑・築山殿は、私と夫・松平信康との仲を裂こうとする。
②姑・築山殿は、娘しか生んでない私の事を役立たずだと言う。
③姑・築山殿は、息子が欲しくて、側室(武田の武将の娘)を用意した。
④姑・築山殿は、浮気相手の減敬を通して武田と繋がっている。
⑤武田勝頼は、夫・松平信康と同盟を結び、姑・築山殿を武田家臣・小山田と結婚させると言っている。
⑥夫・松平信康は、気性が荒く、私の侍女を私の目の前で、「このおしゃべり女め」と殺し、その口を裂いた。
⑦夫・松平信康は、踊りが好きで、衣装も踊りもダメな者を射殺した。
⑧夫・松平信康は、鷹狩で獲物がなかったのを出逢った僧のせいにして殺した。
⑨武田勝頼は、夫・松平信康を味方にしたいと言っているので、将来、夫は織田の強敵となる可能性がある。
⑩姑・築山殿は、金使いが荒く、贅沢三昧な暮らしをしている。
⑪姑・築山殿は、武田勝頼に織田と徳川を滅ぼして欲しいと頼んでいる。
⑫近頃、岡崎城下で踊りが流行ってるのは(岡崎の風紀が乱れているのは)、夫・松平信康が愚公だからだ。

といったところでしょうか?

松平信康は、「粗暴」「気性が荒い」、言い換えれば、松平家の「短気」DNA丸出しって感じです。⑥の侍女「小侍従」は、於大の方の手先で、徳姫と松平信康の仲が悪くなる噂(讒言)を広めていたので口を割いたとか、⑦の踊り手とか、⑧の僧(映画『反逆児』では減敬)は武田の間者なので処刑したとも。

全12条の中には「愚痴」としか思えない条目もあるけど、「武田勝頼の血判状(起請文、契約書)」という証拠がある「武田と内通」という条目(注)は捨て置けないので、織田信長は、酒井忠次に問い質すと、否定しなかったので、信康の切腹を命じたそうです。

(注)ドラマでは、武田との内通の有無について、榊原康政が岡崎へ行き、「松平信康の側室は、旧・武田家臣の娘」と確認しているが、嫡男に側室をもうけたことを実父や榊原康政が知らないわけがなく、実際は、築山殿の文箱から「武田勝頼の血判状」が見つかったので、徳姫は、父・織田信長に報告したのである。(藤川久兵衛には3人の娘がいた。長女は結婚し、次女・琴は築山殿の侍女、三女は徳姫の侍女であった。「武田勝頼の血判状」は次女が見付けて三女に報告し、三女が徳姫に報告した。)

史料:「徳姫12ヶ条の弾劾文」(『改正三河後風土記』より)

一、築山殿悪人にて、三郎殿と我身の中様々に讒して不和になし玉う事。
一、我身姫ばかり二人産たるは何の用にかたたん。大将は男子こそ大事なれ。妾あまた召て男子を設け給へとて、築山殿すすめにより、勝頼が家人日向大和守が娘を呼出し、三郎殿妻にせられし事。
一、築山殿甲州唐人医師減敬と云者と密会せられ、剰これを使とし、勝頼へ一味し、三郎殿を申しすすめ甲州へ一味せんとする事。
一、織田・徳川両将を亡ぼし、三郎殿には父の所領の上に、織田家所領の国を進られ、築山殿をば、小山田といふ侍の妻とすべき約束の起請文を書て築山殿へ送る事。
一、三郎殿常々物荒き所行おほし、我身召仕の小侍従といふ女を、我目前にて差殺し、其上女の口を引きさき給ふ事。
一、去頃三郎殿踊りを好みて見給ひける時、踊子の装束よろしからず、又踊りざまあしきとて、其踊子を弓にて射殺し給ふ事。      .
一、三郎殿鷹野に出給ふ折ふし、道にて法師を見給ひ、今日得物のなきは此法師に逢たる故なりとて、彼僧が首に縄を付、力革とかやらんに結付、馬をはせて共法師を引殺し給ふ事。
一、勝頼が文の中にも、三郎殿いまだ一味せられたるとは候はず、何ともして進め味方にすべしとの事に候へば、御油断ましまさば、末々御敵に組し候べきにやと存候故申上候。

史料:「徳姫12ヶ条の弾劾文」(『参河志』より)

一、築山殿悪人にて三郎殿と我身の中様々に讒し不和になし玉う事。
一、我身女子斗産たる事何の用にかせん大将は男子こそ重宝なれば妾を多置て男子を設たまへと築山殿の勧によりて勝頼が家人日向大和守が女を呼て信康の妾とし甲州に一味する事。
一、築山殿甲州の唐人医師減敬と言うものを密夫として剰へ彼を使として勝頼に一味し信康を申し勧め甲州方の味方として信長公家康公を亡し信康には父の所領の上に織田家の知行の国を進せ築山殿をば小山田という侍の妻とすべし約束の起請文を書て築山殿へ返事。
一、三郎殿常々物荒く御座し我身召仕みの小侍従と申女を我が目の前にて差殺し其上にて彼の女の口を引きさき玉ふ事。
一、去頃三郎殿おどりを好みて見玉ふ時踊子の装束不宜又踊様あしくとて其まま踊子を弓にて射殺し玉ふ事。
一、信康殿鷹野に出玉ふ折ふし道にて出家に出合ひたるに今日殺生のあらざるは法師に逢ひたる故なりとて彼法師の首に縄を付け力皮とやかに結付、馬馳せっすり殺し玉ふ事。
一、勝頼が文の中にも一味したるとなし何としても勧め味方にすべしとの事に候へば御油断あらば末々は悪敵に与し可申候存前申上候。

 

キーワード:於愛の方(西郷局)

於愛の方(西郷局)は、岡崎城を築いた三河国守護代・西郷氏の子孫です。

西郷氏は、岡崎城を松平氏に譲ると、本拠地を移し、最終的には「西郷谷」(愛知県豊橋市石卷中山町)を本拠地としました。

「西郷谷」現地案内板(愛知県豊橋市石卷中山町)

西郷氏の本拠地・西郷谷は、三方を山に囲まれ、開口部は西です。

最深部(東端)の山に五本松城、その山麓に居館があり、詰の城は五葉城です。(ちなみに、井伊氏の本拠地・井伊谷は、三方を山に囲まれ、開口部は南です。最深部(北端)の城山に城山城、その山麓に居館があり、詰の城は三岳城です。)

西郷谷の「弾正塚」(於愛の方の祖父・西郷正勝の墓)

於愛の方が生まれた父・戸塚忠春の屋敷跡(掛川市西郷地区)

於愛の方の母は西郷正勝の娘で、父は徳川家康と共に戦ったこともある戸塚忠春(今川家家臣)で、夫は従兄・西郷義勝です。

於愛の方の夫・西郷義勝の墓(西郷谷)

於愛の方は、夫・西郷義勝と死別すると、夫・戸塚忠春と死別して掛塚(静岡県磐田市掛塚)の服部正尚(服部氏は忍者で、この時は掛塚の鋸鍛冶屋に変装)と再婚していた母を頼って服部屋敷に住み、「田中城攻め」の帰りに服部屋敷で休憩した徳川家康に見初められると、母の弟・西郷清員の養女となって、徳川家康の側室になり、徳川秀忠を生みました。(「~局」という名には、地名を使うそうで、「西郷局」という名は、本人が西郷氏だからとか、養父が西郷氏だからではなく、掛川市の西郷地区(現在の上西郷、下西郷)で生まれ育ったからだそうです。)

於愛の方は、美人で、性格もよく、徳川家康の寵愛を受けたので、築山殿の侍女が毒殺したとする説もあります。

於愛の方の墓(宝台院)

於愛の方に対し、築山殿は「悪女」のイメージが強いので、「悪女役」のイメージが強い女優さんの菜々緒さんが抜擢された?
それとも、「菜々緒さんが抜擢されたということは、悪女だろう」と視聴者に思わせておいて、「そうじゃないよ~」と意表を突こうとしたのか?

次回は、その「悪女について」です。

築山殿は本当に噂通りの「悪女」だったのか?
それとも「良妻賢母」(徳川家康の良き母、松平信康の賢き母)だったのか?

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

主要キャラの史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

-井伊家を訪ねて

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